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ヒストリー

ヒロシマの記録1970 4月


1970/4/1
広島県医師会が会員の手記をまとめた「原爆日記」第1集を出版
1970/4/1
志水清原医研前所長ら広島大を定年退官した3人の教授がABCCに入所
1970/4/2
仏政府が核実験のため南太平洋ムルロア環礁付近に危険地帯を設定すると告示
1970/4/2
広島県被爆教師の会(石田明会長)が定期大会で1970年度の活動方針決める。(1)被爆二世の健康調査(2)被爆体験継承のための文集作成-など
1970/4/3
広島市の基町地区再開発工事現場で見つかった10数体分の遺骨を平和記念公園内の戦災供養塔に安置
1970/4/4
仏外務省が在仏日本大使館に、南太平洋ムルロア環礁付近で核実験を実施すると通告
1970/4/5
作家でジャーナリストでもあるロベルト・ユンク氏が広島市を10年ぶりに訪問。「原爆戦争の犠牲者である被爆者が戦争の加害者でもあったという心の痛みから、韓国人被爆者、朝鮮人被爆者を救援する運動を起こそうとしてることに驚いた」
1970/4/8
万国博の地方自治体館から被爆写真が撤去された問題で、宮内弥館長が映画監督の岡本愛彦氏ら制作スタッフの抗議文に拒否回答。スタッフ側が明かし、著作権侵害で告訴も示唆
1970/4/8
世界法基金協会が原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」に広島市長のメッセージを盛り込み世界に配布する計画進める。ハリー・B・ホリンズ理事長が山田市長に要請
1970/4/9
米上院本会議が、米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)で攻撃用複数目標弾道(MIRV)、防御用弾道弾迎撃ミサイル(ABM)とも展開凍結の提案をするよう、ニクソン大統領に要請した共同決議案を可決
1970/4/10
TBSが原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」を反響にこたえて再放送
1970/4/10
「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が広島市の本川橋西詰めに完成。金在権駐日韓国公使、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の崔成源団長、山田広島市長ら100人が参列して除幕式。碑文は「韓国原爆犠牲者慰霊碑李E%公殿下外二万余霊位」
1970/4/11
「爆心から500メートル以内の生存者は1人といわれてきたが、もう1人いた」。広島市の原爆被災復元委員会の調査で判明。島根県八束郡玉湯町玉造の嵐貞夫さんで、袋町小の地下室で被爆。会長の志水清前原医研所長が広島大退官講演で明かす
1970/4/11
英戦略研究所が年次報告書を発表。1969年末のソ連の大陸間弾道ミサイル(ICBM)保有量は1,200基。米の1,054基を上回る
1970/4/12
ポーランド国立ワルシャワ・フィルハーモニー交響楽団の一行が広島市の原爆慰霊碑に参拝
1970/4/12
爆心地に近い袋町小の地下室で被爆した男性が名乗り。広島県安佐郡可部町の太田睛(ひとみ)さん。志水清前原医研所長が退官講演(11日)で明らかにした地下室生存者の新事実に対する反響 1970/4/12
万国博地方自治体館の村上良太郎副館長が原爆関係の映像フィルムも一部カットする方針を明かす。「治療する被爆者」「傷ついた赤ん坊」「8・6に祈る婦人被爆者」「慰霊祭でむせび泣く婦人」の4場面。村上副館長は「宮内弥館長に外部からクレームがあったと聞いている」
1970/4/13
米国防総省スポークスマンが「航行不能になったソ連原子力潜水艦が12日ごろ、スペイン沖の大西洋で沈没したもよう」と語る。AP、UPI通信「大西洋での原子力潜水艦の沈没は米ソで3隻目」
1970/4/13
広島市の基町地区再開発工事現場で見つかった遺骨は、広島市の調べで、当時現場付近にあった第2陸軍病院内で被爆した看護生や衛生兵、軍医らのものとほぼ確認。遺骨の引き渡しを準備していたが、20日になって疑問点が浮上、引き渡しを延期
1970/4/14
政府が南太平洋ムルロア環礁で予定している核実験を中止するよう仏政府に申し入れ
1970/4/14
中曽根康弘防衛庁長官が参院予算委員会で「原子力潜水艦を海上自衛隊が保有しても原子力基本法に違反しない」と答弁
1970/4/14
爆心から500メートル以内の生存被爆者が続々と名乗り。袋町小で被爆した当時の同小教頭、広島市田方1丁目の坪田省三さん。広島市旭町の石井茂さんは日本銀行広島支店で被爆。石井さん「同じ日銀ビル内で被爆した同僚6人と文通している」
1970/4/14
日本被団協が政府、国会に「原爆被害者援護法」制定の真意を問う4月行動を始める。東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の慰霊碑がある品川の東海寺で150人が集まり決起集会
1970/4/15
原爆の熱線による影が焼きついた戸棚が広島大工学部で見つかる。原医研付属原爆医学標本センターで永久保存へ
1970/4/15
広島原爆養護ホームが広島市舟入幸町に開所。広島市と国、県が共同で建設。一般養護ホーム(定員100人)と特別養護ホーム(同50人)から成る。総工費2億1,300万円。地下1階、地上3階、和、洋居室24のほか、浴室、機能訓練室など。胎内被爆小頭症者の保護者たちは「授産施設がなく、施設に子供を入所させられない」と強い不満
1970/4/16
米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)がウィーンで始まる
1970/4/17
広島市が志水清前原医研所長を表彰
1970/4/18
新華社が「日本政府は日米共同声明発表(1969年11月)以来、誘導ミサイルと核兵器開発に拍車をかけている」と非難
1970/4/18
広島県佐伯郡五日市町の森下弘教諭が原爆の悲惨さを込めた書が改組第1回日展に入選。「ガード下にみゝずのように転がる黒焦げの少年は苦痛を言わない」との自作の詩で、この日から始まった日展広島会場に出品
1970/4/20
レアード米国防長官がAP通信の年次総会で演説。「1965年以来ソ連の戦略核兵器のメガトン数は4倍に強化された。もし議会が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)網の拡大を承認しなければ攻撃用核兵器を増強しなければならなくなる」
1970/4/20
志水清前原医研所長が中国新聞紙上で韓国人被爆者の援護を訴える。志水氏は4月上旬に韓国を訪問、被爆者や現地の放射線医師と意見交換。「韓国の被爆者は釜山を中心に1万5,000人と推定されるが、韓国原爆被害者援護協会に登録しているのは4,500人。被爆者差別は根強く、医療面の援護も受けられないまま不安な日々を送っている」
1970/4/21
広島市舟入幸町の広島原爆養護ホーム(15日開所)に原爆孤老9人が第1陣として入所。定員をはるかに上回る240人が入所希望
1970/4/23
原対協が子宮がん検診を始める
1970/4/24
原水禁国民会議が全国委員会を開き、1970年の運動方針を決める。被爆25周年の意義を深めるため「被爆の原体験、原水禁運動の原点に立ち返る」をスローガンに(1)日本の非核武装宣言、自衛隊核武装禁止決議(2)被爆者援護法の制定運動(3)原子力発電所の安全対策確立-に重点
1970/4/24
米国防総省筋が「ソ連のミサイル積載潜水艦が最近、米を射程に置く大西洋水域に出没」と語る
1970/4/24
社会党の大原亨氏が衆院文教委員会で「万国博地方自治体館の被爆写真撤去は著作権侵害」と追及
1970/4/24
山田広島市長が米の平和団体から要請があった被爆資料の貸し出しを拒否。日米繊維交渉など微妙な政治情勢を考慮し、外務省の意向に沿う
1970/4/25
日本原水協が全国理事会で、インドシナの戦争拡大に反対し、日米共同声明と対決する姿勢を強める-など70年代の運動方針を決める
1970/4/25
中国が「初の人工衛星を24日打ち上げた」と発表。ソ連、米、仏、日本に次いで5番目。大陸間弾道ミサイル(ICBM)の完成間近との観測広がる
1970/4/27
中国の人工衛星打ち上げ成功について、外務省の藤山楢一情文局長が見解。(1)軍事目的に利用しないように切望(2)1日も早く核拡散防止条約に参加を(3)打ち上げ成功は国際政治に影響するとは考えられない-など
1970/4/28
爆心近くの広島市袋町小で被爆しながら生存している師弟4人が25年ぶりに同小で再会
1970/4/28
広島市が被爆25周年記念事業で原爆映画製作を決定。中国新聞社、中国放送、広島テレビの報道3社と共同で製作委員会(委員長、森脇幸次中国新聞社論説主幹)設置。16ミリ、30分程度で、原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」を編集した米コロンビア大マスコミセンターや旧日本映画社のスタッフで作る日本映画新社、マスコミ各社が持つフィルムやスチール写真を加え編集する方針
1970/4/30
旅券を持たずにヨットで中国を訪問しようとし、出入国管理令違反に問われた平和運動家アール・レイノルズ氏に長崎地裁が罰金刑の判決
1970/4/30
万国博地方自治体館(宮内弥館長)が映像展示の原爆シーンを差し替えて公開。制作者ら抗議へ
1970/4/--
広島市内の学生らで作る「ヒロシマ研究会」の薬真寺康圭さんら6人のグループが朝鮮人被爆者の実態調査進める
1970/4/--
「原爆ドームの写真をチェコスロバキアの博物館に飾りたい」。ドームの前身元広島県産業奨励館の設計者故ヤン・レツル氏のめいエミリアナ・ヘイズラロウバさんから広島「折鶴の会」に手紙。発送に向け準備
1970/4/--
被爆体験を訴え世界46カ国を車で回った広島県安佐郡高陽町の二井正志さんが帰国。3年半、17万6,000キロの平和巡礼。「被爆の実態は理解されていない」
1970/4/--
広島県衛生部が「入、通院している認定被爆者の半数が貧血や白血病など造血機能障害」との調査結果まとめる
1970/4/--
広島市原対課が爆心から500メートル以内の生存被爆者は200人前後と推定
1970/4/--
政府が核拡散防止条約に基づく国際原子力機関(IAEA)との査察協定に関する意見まとめる。査察の簡素・合理化、平等化を要望し自国査察の尊重を主張
1970/4/--
ワールド・フレンドシップ・センター(原田東岷理事長)が、6月22日から米に「第3回平和巡礼」の派遣を決める

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