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ヒストリー

ヒロシマの記録1970 5月


1970/5/2
原爆映画全面公開推進会議(庄野直美広島女学院大教授ら11人)が(1)広島市が計画している新しい原爆映画製作への全面協力(2)文部省に原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の全面公開申し入れ-など決める
1970/5/2
広島学院高の「8・6研究会」が同校の文化祭で原爆を考える展示会。写真家佐々木雄一郎氏から借りた被爆写真や原爆に関する科学的資料の展示、高校生の原爆・平和に対する意識調査も
1970/5/6
ウィーンの米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)が再開
1970/5/7
広島「憩いの家」(広島市宇品西2丁目)の田辺耕一郎常任委員や被爆者の代表が山田広島市長に「平和記念式典の模様と式典で打ち鳴らす平和の鐘の音を宇宙中継を通じて全世界に流してほしい」と要請
1970/5/9
広島市袋町学区が初の原爆犠牲者・戦没者追悼式。広島市信用組合本店に100人が参列
1970/5/10
米原子力潜水艦パーミットが沖縄中部ホワイトビーチ軍港に入港
1970/5/10
西ドイツのグスタフ・ハイネマン大統領が広島市を訪問。「生命力は破壊力よりも強いという証明を広島市に見た。しかし、今日の核開発をみると、生命力が破壊力より強いといって安心してはおれない。人類が壊滅の危機にさらされていることを真剣に考えねばならない」
1970/5/11
広島・長崎の原爆遺品を集めた展示会がニューヨーク市文化センターで始まる。海外展示は初めて
1970/5/11
原爆映画全面公開推進会議の森滝市郎広島大名誉教授、相原和光広島YMCA主事、旧日本映画社のプロデューサー加納竜一氏が坂田道太文相に原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の全面公開を要請。坂田文相は「人権尊重の立場から公開は不適当」
1970/5/12
レアード米国防長官が上院軍事委員会で「セーフガード弾道弾迎撃ミサイル(ABM)網増強に失敗すればソ連を勇気づけ核戦力を強化する」と証言
1970/5/13
社会党の矢山有作氏が参院内閣委員会で「青森県三沢基地に核兵器貯蔵の疑いがある」と政府を追及。在日米軍は否定
1970/5/14
広島県原水協(共産党系)が第16回原水爆禁止世界大会の内容決める。海外代表の被爆者家庭訪問や大会参加者による被爆者救援街頭募金の実施-など
1970/5/14
広島県原水協(佐久間澄理事長)、広島県被団協(田辺勝理事長)、胎内被爆・被爆二世を守る会(山口勇子代表)など共産党系3団体が独自に被爆二世の健康実態調査を始める
1970/5/15
仏の核実験に対し外務省の藤山楢一情文局長が「仏政府に強く抗議するとともに実験の即時中止を要求する」との談話を発表
1970/5/15
仏国防省が「15日、南太平洋のムルロア環礁で低出力の実験的核装置を爆発させた」と発表。弾道ミサイル・システム用水爆弾頭を完成させるための実験
1970/5/15
出入国管理令違反の罪で罰金刑判決を受けた平和運動家アール・レイノルズ氏がヨットのフェニックスで長崎から広島港に入港。広島入国管理事務所が60日の在留を認める特別許可を示したが、「特別許可は永久に日本に住みたいと思っている私の意思に反する」と拒否
1970/5/16
被爆直後から血液標本の作製を続けている広島赤十字病院の斉藤誠二技師長が第5回小島三郎記念技術賞を受賞
1970/5/16
広島県原水禁(社会党・総評系)と広島県被団協(同)が仏政府に核実験抗議の電報。諸谷義武長崎市長や広島「折鶴の会」も抗議の電報や手紙
1970/5/16
ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオノフ空軍大佐が広島市を訪問
1970/5/16
元広島第1陸軍病院宇品分院で被爆者の介護や遺体の処理にあたった当時の見習看護婦らが「広島陸軍病院宇品地区被爆死者慰霊碑建設連絡会」を結成。「名前もわからず死んでいった人たちの霊を慰めたい」
1970/5/16
被爆25周年を迎え、長崎県教組長崎総支部が「長崎市原爆被爆教師の会」を結成、会員50人(「長崎年表」)
1970/5/17
米平和活動家のアール・レイノルズ氏が、広島出入国管理事務所との話し合いがつかず、ヨットのフェニックスで広島港を出港、帰国へ。「広島に住み続けたいが、日本政府は私を強制的に国外退去させた。2度と広島の土を踏むことはあるまい」
1970/5/18
ソ連友好文化代表団(ニーナ・ポポワ団長)が広島市を訪問
1970/5/20
広島市内で写真館を経営する岸田貢宜氏が被爆直後に撮影した11枚の写真を原爆資料館に寄贈。「原爆映画の製作に役立てて欲しい」
1970/5/20
原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」の製作者である米コロンビア大のエリック・バーナウ教授から原水禁国民会議に手紙。「8月に広島を訪問して、映画やテレビが平和をつくり出す役割について話したい」
1970/5/21
米原子力潜水艦パーミットが横須賀港に入港。原潜の日本寄港は通算37回目
1970/5/22
広島市平和記念公園管理事務所が広島西署に「原爆慰霊碑のさい銭箱が荒らされた」と届ける
1970/5/22
西ドイツのグスタフ・ハイネマン大統領からの見舞金100万円が広島原爆病院に届く。広島訪問で被爆者の苦悩に触れ、帰国後「個人として援助させてほしい」と寄付を申し出る
1970/5/23
中国新聞が被爆二世にスポットをあてた「解明を急ごう-被爆二世問題の周辺」を5回連載
1970/5/23
広島市基町の通称「原爆スラム」で26棟を全焼。165人が被災
1970/5/25
米空軍スポークスマンが「北ダコタ州のマイノット付近のダコタ平原に複数目標弾頭(MIRV)の配備を始めた」と表明
1970/5/25
世界46カ国を車で回り原爆の悲惨さを訴えた広島県安佐郡高陽町、二井正志さんが中国新聞夕刊の「平和巡礼-18万キロ」を寄稿。10回連載
1970/5/26
米ネバダ核実験場で2つの地下核実験。放射能が大気中に漏れる。米政府原子力委員会は「流出した放射能が広大な実験場の外部に流れ出ることはないようであり、実験要員も被害は受けていない」と発表
1970/5/26
原水禁国民会議が米コロンビア大マスコミセンターから購入した原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」の上映運動始める。東京・全日通会館で初の公開試写会。700人が集まり3回上映
1970/5/26
日本原水協が第16回原水禁世界大会にパリ会談の北ベトナム政府首席代表スアン・トイ氏と南ベトナム臨時革命政府首席代表グエン・チ・ビン夫人を招待へ
1970/5/27
米がケープケネディの地下サイロから複数核弾頭実験モデルを装備したミニットマン3型ミサイルを大西洋の目標水域に向け発射実験
1970/5/29
広島市の新しい原爆映画製作について、山田広島市長と広島原爆映画製作委員会の森脇幸次委員長が連名で新聞放送関係加盟14社に文書で協力要請
1970/5/29
ソ連の作曲家セラフイム・ツリコフ氏が佐々木禎子さんの死を悼む「日本のツルを折る娘」を作曲。広島市と広島県被団協へ贈る
1970/5/30
仏国防省が「30日、南太平洋のファンガタウファ環礁で現在進行中の一連の核実験のうち、3回目の核爆発実験を行った」と発表
1970/5/30
広島県教職員組合が第35回定期大会で「原爆被爆教師の像」建立を提案。全国規模の募金展開へ
1970/5/30
「中国の核実験などにより日本海は次第に放射能で汚染され、他の海洋にみられない『プール現象』で放射性物質が沈殿」。山本作次郎島根大文理学部教授が最近4年間の調査結果を発表。科学技術庁へ調査を申し入れ
1970/5/31
広島県被団協(田辺勝理事長)が1970年の運動方針決める。(1)全被爆者を特別被爆者扱いに(2)被爆二世への手帳交付(3)被爆者特別措置法の各種手当の制限撤廃、緩和-など
1970/5/--
広島県が4月から市町村に窓口を移した原爆被爆者健康管理手当の支給業務が混乱。大竹、庄原、佐伯郡廿日市、湯来の4市町が事務に手間がかかると業務拒否
1970/5/--
長崎市が米コロンビア大編集の原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」を買い取りへ
1970/5/--
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が東京在住の被爆二世の実態調査まとめる。「心身障害の比率が高く、68%が原爆差別を意識」
1970/5/--
長崎市が原爆被災復元調査事業の実施を企画、復元調査資料の収集を始める(「長崎年表」)
1970/5/--
市丸道人長崎大医学部助教授が「再生不良性貧血は原爆の後障害と言えぬ」と新説。6月7日の原爆後障害研究会で発表へ

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