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ヒストリー

ヒロシマの記録1970 6月


1970/6/1
広島テレビが原爆ドキュメンタリー「ある夏の記録」「朝顔」(いずれも英語版)を広島市に寄贈
1970/6/1
広島市が原爆映画製作委員会、製作スタッフとの合同会議開く。題名は「ヒロシマ原爆の記録」とし、シナリオ作成と監督に日本映画新社の小笠原基生氏
1970/6/2
フルブライト米上院外交委員長が聴聞会で「ベトナム戦争のある時点で米軍が核兵器を使用する可能性がある」と言明
1970/6/2
核禁広島県民会議(村上忠敬議長)が広島市に被爆者治療のため医療器具など贈る
1970/6/3
広島県山県郡戸河内町の上殿小児童が広島原爆病院に山ユリと文集を贈る。山ユリ慰問は1951年から続き20回目
1970/6/3
米紙ニューヨーク・タイムズが「米ソ戦略兵器制限交渉で米は弾道弾迎撃ミサイル(ABM)網のうちワシントンを守る1カ所だけ残すと提案」と報道
1970/6/4
米国防総省のジョン・フォスター研究・開発技術所長が上院軍事委員会軍縮分科会で「大陸間弾道ミサイルミニットマンは、複数目標弾頭(MIRV)を運搬できるように改良が施されており、今月末には作業が完了」と証言
1970/6/5
全電通中国地本(宮崎安男委員長)が書記長会議で(1)被爆職員の実態調査の実施(2)被爆死亡者に支払われている年金の差別撤廃-を当局に申し入れ決める
1970/6/6
日本原水協(共産党系)の原水爆禁止国民平和行進が広島市の平和記念公園を出発。8月1日に東京で開かれる第16回原水禁世界大会をめざす
1970/6/6
広島県原水禁(社会党・総評系)が拡大常任理事会で「8月6~9日の国際停戦」呼びかけを提唱
1970/6/7
「被爆者の死亡率は1962年以降、再び被爆放射線量に比例して高まっている」。広島市で開かれた第11回原爆後障害シンポジウムで加藤寛夫厚生省技官(ABCC)が発表。被爆線量と死亡率の関係を分析した初の統計
1970/6/7
米平和運動家のアール・レイノルズ博士が明枝夫人と共にヨットのフェニックスで米に向け横浜港を出港。19年間の日本生活に別れ
1970/6/8
「広島市内の被爆者は1966年の9万5,600人をピークに漸減しており、1970年中に9万人を割る」。原対協が原爆後障害研究部会総会で報告
1970/6/10
社会党が東京・三宅坂の党本部にソ連、ポーランドなど社会主義圏を中心に13カ国の外交官を招き原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」を上映
1970/6/11
「8月6日を特別登校日にし、教師と児童、生徒が平和を考える日にしたい。市教委と検討する」。山田広島市長が広島県原水禁の浜本万三事務局長らの要望に対し言明
1970/6/11
日本被団協が全国代表理事会で、1971年度の予算編成に向け、被爆者全員への特別手帳交付や被爆二世に対する救援など15項目の被爆者対策要求をまとめる
1970/6/12
島根県八束郡鹿島町で中国電力島根原子力発電所の起工式
1970/6/14
広島県高教組(岡木清委員長)が定期大会で「広島県高校被爆教職員の会」の発足決める。平和教育推進の核としての役割を期待。7月29日結成
1970/6/15
日本原子力研究所と動力炉・核燃料開発事業団が英原子力公社と「液体金属冷却高速炉に関する情報交換と協力の協定」結ぶ
1970/6/15
「広島市平和公園爆心復元委員会」(成宮惣五郎会長)の代表が山田広島市長に「委員会が集めた爆心地の原爆犠牲者の遺影を平和記念式典に展示してほしい」。29日に要望へ
1970/6/16
広島県被団協の森滝市郎理事長らが山田広島市長に「8・6式典が形骸化している。祝辞の代読は取りやめ、市民代表の決意表明など市民中心に」と陳情
1970/6/16
ジュネーブ軍縮委員会が後半会期に入る。米ソ代表が海底非核化条約案の早期採択を訴える
1970/6/16
ウィーンの国際原子力機関(IAEA)保障措置委員会で、日本が「全核物質を査察の対象に」と提案 1970/6/16
広島市教育委員会が平和教育編成委員会の5人を長崎市に派遣、長崎市と平和教育について意見交換
1970/6/16
長谷川鉦三広島県教育長が県議会文教委員会で「8・6特別登校は学校の判断で決めるべき」と答弁
1970/6/17
街頭でのビラ張り行為の規制を定めた軽犯罪法は違憲か合憲かで争われていた「原水禁ビラ張り事件」で、最高裁大法廷は「公共の福祉のため、表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限で違憲ではない」と愛知原水協の活動家2人の上告を棄却
1970/6/17
米上院軍事委員会がニクソン大統領の提出した弾道弾迎撃ミサイル(ABM)セーフガード拡大計画のうち、対ソ防衛分は認めるが対中国向け計画は拒否する修正案を可決。米経済の厳しさを反映
1970/6/18
広島市平和文化推進審議会で広島市の医師原田東岷氏が被爆25周年を記念してノーベル賞受賞者を招いた平和会議「ヒロシマ会議」の開催計画を明かす
1970/6/20
文化評論社(広島市観音本町2丁目)が広島市の文芸同人誌を中心にした作家の原爆小説集「<八月六日>を描く」を出版。原民喜氏の「夏の花」など8編を収録
1970/6/20
広島市と世界連邦建設同盟広島支部連合会が広島市平和記念館で「平和教育を考える」シンポジウム開く。相原和光広島YMCA総主事ら4人が討論
1970/6/21
原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」撮影が原爆資料館で始まる。監督に松川八洲雄氏が加わる
1970/6/22
米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発
1970/6/24
仏国防省が「24日、南太平洋ムルロア環礁で低規模な核実験を実施した」と発表
1970/6/24
広島県原水協(共産党系)が広島原爆医療相談所建設委員会を結成。全国に募金を呼びかけ1971年度開所が目標
1970/6/26
広島県原水協(共産党系)、広島県被団協(同)が広島市で桑原訴訟支援の決起集会開く
1970/6/26
山田広島市長と諸谷義武長崎市長が佐藤首相に両市の平和式典への出席を要請。首相は返答せず
1970/6/26
広島市教育委員会が「8・6登校」は各学校の判断に一任することを決める
1970/6/26
核禁会議(磯村英一議長)が(1)核の平和利用の推進と核公害の排除(2)県庁所在地に「ノーモア・ヒロシマズ、ナガサキズ」の看板設置-など運動方針を決める
1970/6/28
中国放送が被爆直後の広島、長崎を撮影した米軍のカラーフィルムを放映
1970/6/29
日本原水協が第16回原水爆禁止世界大会に招待するベトナム和平会議の北ベトナム首席代表スアン・トイ氏らの入国を認めるよう外務省に要請
1970/6/--
乳歯に蓄積される放射性ストロンチウム90の量を調べている国立予防衛生研究所が1969年度までの調査報告書をまとめる。(1)戦後、人体内のストロンチウム90の量が急増(2)増減は核実験と相関がある(3)牛乳で育った児童は特に増え方が著しい
1970/6/--
国鉄中国支社が勤務中の被爆を「公傷」と認定。原爆症治療で長期休職中の職員2人に給与支給
1970/6/--
日本原水協が被爆25周年を機に「茶の間で見る原爆映画」の製作進める。米コロンビア大マスコミセンターが編集した「広島・長崎-1945年8月」などを8ミリフィルムで20分程度に再編集し100本作る計画
1970/6/--
蜂谷道彦元広島逓信病院長が被爆直後にまとめた「入市者の健康状況調査」のスライドを広島県医師会に寄贈
1970/6/--
自民党の大久保武雄代議士が被爆当時の中国海運局をつづった冊子「原爆の証言」を出版
1970/6/--
広島市教育委員会が基町地区の再開発事業で姿を消す旧陸軍輜重隊倉庫など3件の原爆遺跡の保存を広島市に要請
1970/6/--
故永井隆博士が書いた「原爆救護報告書」が25年目の長崎市で見つかる
1970/6/--
近代映画協会製作の映画「触角」が広島上映。監督・新藤兼人氏、出演・乙羽信子、大丸二郎、太地喜和子の各氏(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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