×

ヒストリー

ヒロシマの記録1970 7月


1970/7/1
広島県被爆教師の会(石田明会長)が小学生向け平和教育教材「ひろしま-これはわたしたちのさけびです」発行。3万部配布へ。原爆パネル写真集「ひろしま」も完成。県内の小、中学校で展示会
1970/7/3
仏が南太平洋のムルロア環礁で3回目の水爆実験。気球を使い高度600メートルで爆発。小型核弾頭用の実験とみられる
1970/7/4
仏水爆実験に対して、外務省の藤山楢一情文局長が「極めて遺憾」と抗議声明。原水禁団体も一斉に反発、山田広島市長が抗議電報打電へ
1970/7/4
ドブレ仏国防相が記者会見。「仏政府は数カ月以内に熱核兵器(水爆)の製造に関して重大な決定を下す。原子力潜水艦は1975年末か76年初めまでに水爆を積載することになろう。核実験は少なくとも76年まで続ける」
1970/7/4
被爆直前の広島市十日市町の町籍簿が見つかり、住民が「被爆地図復元の資料に」と広島平和文化センターに届け出る
1970/7/4
ABCC労組(上田登委員長)が第29回定期大会で核の平和利用を宣言
1970/7/5
東京電力の福島原子力発電所1号機が臨界。東北地方に初の原子の灯ともる
1970/7/6
仏軍事消息筋が「今回の水爆実験(3日)の結果、水爆量産の見通しがついた。英の協力なしに独自の核戦略体制を確立できる自信ができたのも意義深い」と述べる
1970/7/7
長崎県教組長崎総支部が、長崎市内の小中学生を対象に初の原爆意識調査を行った結果「広島のこどもより原爆意識が低い」と発表(「長崎年表」)
1970/7/8
広島市などが作る原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」を運営・管理する管理委員会が初会合。原田東岷氏を委員長に選ぶ
1970/7/8
「中国は大陸間弾道ミサイル(ICBM)の初テストを1年半以内に行い、実戦配備は73年」。米上院軍事委員会がレアード国防長官の聴聞会での証言を公表
1970/7/9
レアード米国防長官が「ソ連は複数核弾頭付きのSS9の配備を米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)の間にも進めている」
1970/7/10
ウィーンの米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)が23回目の討議。観測筋によると、米ソ両代表が協定作成作業という重要段階に入ったとみられる
1970/7/10
「原爆被爆犠牲教師の碑建設委員会」が発足。広島県被爆教師の会、広島市教育委員会、小・中学校長会など10団体の代表が出席。1971年8月除幕めざす。「平和記念公園内の原爆の子の像の隣に建て、相たずさえて平和を訴える形にしたい」との希望が強く広島市と調整へ
1970/7/10
「平和公園爆心復元委員会」が要望している平和記念式典への犠牲者の遺影展示に対し、広島市が原爆記念映画公開会場での展示案を提示。復元委は了承
1970/7/10
桐朋短大演劇科が東京・調布市の同学園で原爆劇「ヒロシマについての涙について」を上演
1970/7/10
広島市が平和記念式典に市民の献花の取り入れなど新方針を決める
1970/7/10
広島県被爆教師の会が中学生向けの平和教育用英語副教材「LETSCRYFORPEACE!」(試案)を出版。「原爆の子」の作文、峠三吉、栗原貞子さんらの原爆詩で構成
1970/7/11
原水禁国民会議が「核拡散防止条約」の早期批准を政府に要求する方針を固める。核保有国の核軍縮義務がないなどの理由で同条約に反対の立場をとっていたが、日本の核武装を阻止する立場から姿勢を転換
1970/7/11
原水禁国民会議が被爆25周年原水禁世界大会の基調を発表。核拡散、日本の核武装化の危機を背景に(1)いかなる国の核兵器にも反対し、原水爆の完全禁止を実現(2)沖縄の核基地を撤去させ、完全復帰を勝ち取る(3)核兵器の持ち込みと日本の核武装化阻止-などをスローガンに
1970/7/12
ドブレ仏国防相が「仏はすでに自力で水爆兵器を製造できる段階に達している」と言明
1970/7/13
広島市教育委員会が原爆の日の意義を子供たちに理解させる指導資料「平和記念日の取り扱いについて」を市立小、中、高校の教諭に配布。1968年に作成した参考資料の改訂版
1970/7/14
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が編成した広島墓参団(団長、伊東壮事務局長)の一行44人が25年ぶりに広島市入り。広島原爆病院を慰問。広島の被爆者と懇談
1970/7/14
広島市の平和記念公園内にある動員学徒慰霊碑のさい銭箱が荒らされる。8月3日にも被害届
1970/7/14
「原爆被爆犠牲教師の碑建設委員会」の石田明氏らが広島市に「平和記念公園にある原爆の子の像の近くに教師の碑建設を認めてほしい」と陳情。市は「公園内の碑はこれ以上増やさない」と拒否
1970/7/14
広島市の原爆慰霊碑周辺の玉じゃりの取り換え工事が18年ぶりに始まる
1970/7/15
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の広島墓参団の一行が肉親らの死没地点を訪ね慰霊
1970/7/15
中国電力が、建設中の島根原子力発電所1号機用の濃縮ウラン供給で米政府原子力委員会と契約
1970/7/15
広島県高教組が原爆問題の特設授業を8月6日までに最低1時間実施するよう各分会に指示
1970/7/17
広島市が原爆死没者慰霊式・平和祈念式に韓国・朝鮮人被爆者の献花を加えることを決め、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部と在日本朝鮮人総連合会広島県本部に人選依頼
1970/7/17
旧制広島一中生存者の有志が「広島一中動員学徒原爆被災の記」の出版を決める。1971年8月を目標に死没者の実態、生存者の手記を集大成
1970/7/18
広島市の原爆被災復元委員会(志水清会長)が「爆心から2キロ以内にあった30町のうち85%の戸別地図が復元できたが15%の786世帯は不明」と中間報告
1970/7/18
大阪の絵画グループ「レアラ・ロンド」(島常武代表)が大阪市内で「原爆と平和展」。被爆写真や遺品の展示や原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」の上映など、22日まで。万国博の被爆写真撤去に抗議
1970/7/19
「群集の渦」広島支部の細田吉房代表ら4人が、核兵器の完全禁止を訴え広島市内で座り込み
1970/7/20
フォスター米国防総省研究・開発技術局長が「米は弾道弾迎撃ミサイル(ABM)基地を2カ所持っているに過ぎないが、ソ連は現在ABM用レーダー基地をモスクワ周辺以外にも5カ所で建設中」と言明
1970/7/21
写真家の佐々木雄一郎氏(広島市元宇品町)が兵庫県西宮市で原爆写真展「広島の日記」を開く
1970/7/21
原爆死没者名簿の一般公開が広島市平和記念館で始まる。26日まで。期間中、遺族ら1,151人が訪れ、13人の身元が判明
1970/7/21
原水禁国民会議(社会党・総評系)が積極評価した核拡散防止条約を部分的な評価に変える。積極評価に役員会や常任委員会で異論が出たため
1970/7/21
米政府原子力委員会が「ソ連の地下核爆発実験のものとみられる衝撃波を20日夜記録」と発表。1970年に入ってソ連の地下核実験衝撃波は今回で3回目
1970/7/21
日本学術会議原子力特別委員会が資金難で運営が難しくなっている立教、武蔵工大など私大の原子炉を研究、教育用の共同利用施設とする方針を打ち出す
1970/7/21
日米核燃料交渉が妥結。米政府原子力委員会が日本が要求していた発電用原子炉13基分の燃料用ウランの追加供給を認める
1970/7/22
広島、長崎の両県市で組織する広島長崎原爆被爆者援護対策促進協議会が長崎市で幹事会。医療対策に限られていた原爆医療審議会では不満足として、援護問題を含め被爆者対策のすべてを検討する「被爆者対策審議会」設置を政府に訴える方針決める
1970/7/22
ネパールのシャンティ第1王女、シャラダ第2王女夫妻が広島市の原爆慰霊碑に参拝
1970/7/24
ウィーンの米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)で米が複数目標弾頭(MIRV)を除く攻撃用、防御用核ミサイルを制限する包括的案を提示。25日付ニューヨーク・タイムズが伝える
1970/7/25
被爆死した電電公社地方採用職員への年金支給を要求している電通遺族会が総会で、国が年金に代えて提示した30万円の一時金支給案を拒否
1970/7/25
広島市幟町のビル工事現場から被爆者のものとみられる8体分の遺骨が見つかる
1970/7/25
「ソ連は年内に原子力潜水艦保有総数で米を追い越す」。ハイマン・リコーバー米海軍中将が上下両院合同原子力委員会で証言した内容を米議会が公表
1970/7/25
インドの英字紙ステーツマンが「インド政府は条件が成熟すれば平和利用のための核実験を行う」と伝える。サラバイ・インド原子力委員長が記者会見で「2年以内に原子爆弾をつくる能力がある」と述べる
1970/7/26
第5回原水爆禁止科学者会議が東京・学士会館で開会。全国16大学、10研究所から74人が参加。(1)非核三原則の法制化実現(2)被爆者援護法の制定と被災資料収集、記録保存(3)科学技術の悪用、誤用を防ぐため、科学者が協力し原水禁運動にも積極的に参加-などの声明を採択
1970/7/26
大阪市原爆被害者の会が大阪市の中之島公園で第3回原爆犠牲者追悼祭開く。700人が参列、土佐堀川で灯ろう流し
1970/7/26
「広島動員学徒」「旧広島一中」「旧鉄砲町内会」など広島市内で原爆犠牲者の慰霊祭が営まれる
1970/7/26
被爆者の体験記「被爆二十五年の歩み」(兵庫県原爆被害者連絡協議会編)と「被爆婦人の集い・25年を生き抜いて」(大阪市原爆被害者の会婦人部編)発刊
1970/7/27
永野厳雄広島県知事が「6日午前8時15分に原爆死没者のめい福と平和を祈って黙とうを」と県民に呼びかけ
1970/7/27
第五福竜丸保存委員会が3,500万円を目標に募金運動展開の方針決める。中野好夫氏の仲介で日本原水協と原水禁国民会議の役員が同席。募金活動の限定付きながらも、両団体が分裂後初の共同行動を約束
1970/7/27
仏国防省が「27日、南太平洋のムルロア環礁で小規模の核実験を行った」と発表
1970/7/27
韓国の児童文学者、柳大葉氏が慶尚南道陜川郡に住む被爆者の実態を調べ、中国新聞に「韓国のヒロシマ」のタイトルで6回連載
1970/7/27
「中国はチベットに中距離弾道ミサイル(IRBM)基地3カ所を持ち、さらに2カ所建設中。インドシナ半島北部、インド、中ソ国境が射程内に入る」。米週刊誌バロンズが伝える
1970/7/27
長崎市が被爆死した中国人33人を殉難者名簿に記載へ。日中友好協会長崎県連合会の申し入れを諸谷義武長崎市長が了承
1970/7/28
岩国市の大歳神社で大竹市の64歳の被爆男性が農薬を飲み自殺
1970/7/28
法務省入国管理局が第16回原水禁世界大会に参加を希望している北ベトナム代表2人と南ベトナム解放戦線の代表2人の入国拒否を決め、日本原水協に通告
1970/7/29
広島県高教組が原爆・平和教育の推進母体となる「広島県高校被爆教職員の会」(会長、森下弘廿日市高教諭)を結成。(1)原爆・平和教育カリキュラムの編成(2)被爆教師の体験記出版(3)高校生の原爆意識調査の実施-などの活動方針決める
1970/7/29
全電通中国地本の定期大会で、島根県支部などから広島支部の被爆者救援カンパなど平和運動に対する取り組みの弱さを指摘する声が出る
1970/7/29
長崎市で79歳の被爆女性が井戸で自殺
1970/7/30
日本原水協の第16回原水禁世界大会が始まる。東京・学士会館で国際予備会議。12カ国5国際組織、51人の外国代表が参加。子供を原爆症で失った広島市の名越操さんと被爆で両足を切断した長崎市の渡辺千恵子さんが「核兵器の完全禁止」を訴える
1970/7/30
飯島宗一広島大学長、原田東岷医師、庄野直美広島女学院大教授ら広島市内の有識者がノーベル平和賞受賞者らを招く「ヒロシマ会議」推進委員会を結成。11月開催。「70年代におけるヒロシマ・ナガサキの意味と役割を論議して世界に訴える」と構想発表
1970/7/30
広島原爆病院が半年間の診療概況を発表。白血病3例。がんなど成人病の増加傾向が依然続く
1970/7/31
広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列する遺族代表が決まる。広島市宇品御幸3丁目の野田里司さんら4人
1970/7/31
第3回平和を語る市民集会。広島市の平和記念館で「これからのヒロシマ」をテーマに討議
1970/7/31
米政府原子力委員会が「ソ連は今週、大陸間弾道ミサイル(ICBM)のSS11改良型2基を太平洋に向け発射実験した」と発表
1970/7/--
1952年に平和教育用の教材として作られた原爆スライド「原爆ひろしま」(61枚)が原爆資料館に寄贈へ。広島県安芸郡海田町の渡辺保陽さんが保存
1970/7/--
米の童話作家ベティ・J・リフトンさんが原爆写真集「ヒロシマへの回帰」(RETURNTOHIROSHIMA)を米とカナダで同時出版。ベティさんは心理学者ロバート・リフトン博士の妻で、夫妻で広島を2度訪問し取材
1970/7/--
原爆慰霊碑文の作者である故雑賀忠義氏の自筆の下書きが広島市の本川小で見つかる
1970/7/--
訪米中の広島・長崎平和使節団の大原三八雄氏から中国新聞社に活動状況を知らせる便り。「米の市民が原爆被害に寄せる関心は想像以上に強い」
1970/7/--
大阪のアマチュア画家、〓池武さんが原爆3部作「祈り」「流灯」「祈り3」を3年がかりで完成。広島での引き受け先を探す
1970/7/--
元保護司の沢田直二さんが少年院の子供を通じ原爆のツメ跡を描いた「名のない墓標」を自費出版 1970/7/--
米が国防予算に大陸間弾道ミサイル(ICBM)を積載できる大型潜水艦の研究・開発費を盛り込む
1970/7/--
原爆で2人の娘を失った広島市吉島西1丁目の澤田静馬、イチヨさん夫妻が追悼記「子等よ」を出版 1970/7/--
広島市平和記念公園内の戦災供養塔納骨堂に眠っていた女子学生の遺骨に3人の遺族が名乗り。姓しか分からず、広島市年金援護課は3人に分骨へ

年別アーカイブ