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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 3月


1969/3/1
科学技術庁が日本原子力研究所の国産1号炉の立ち入り検査の中間報告を発表。「破損燃料検出器の感度が鈍くなっているが運転を止める必要はない」。燃料棒の破損事故が相次ぎ、2月26日から3日間検査
1969/3/1
山口県原爆被害者団体協議会と山口大の「核と安保問題研究会」が「1969年、日本を考える会」を山口市の白石小で開く。作家の大江健三郎、小田実両氏が出席。約1,000人の市民が参加
1969/3/1
日本原水協の「ビキニ被災15周年3・1ビキニデー中央集会」が静岡、清水両市で開会。全国の代表約4,000人が参加。2日まで
1969/3/2
ワールド・フレンドシップ・センター(広島市南観音町2丁目)の総会で、センター存続方針を決定。創設者で平和活動の中心だったバーバラ・レイノルズさんの帰国を控え、運営を協議。「バーバラさんの意思を引き継いで活動を続けることこそ広島市民の責任」
1969/3/6
茨城県東海村の日本原子力研究所国産1号炉で、原子炉治療が始まる。52歳の米男性の脳腫瘍を照射。原子炉治療はわが国で2回目。担当の東大医学部の畠中坦博士は「照射は成功」。男性は21日、肺炎による心不全で死亡
1969/3/6
参院議院運営委員会の理事懇談会で、社会党など野党側が源田実参院議員(自民党国防部会長、元空幕長)の「原爆発言」を追及。源田議員は1日から米海軍協会の招きで渡米、講演や記者会見で「日本も原爆を持っていたら使用しただろう」「日本本土にも米の核持ち込みを認めるべき」と発言。12日の参院予算委員会で佐藤首相も「源田発言は不謹慎」
1969/3/7
広島原爆病院を治療途中で退院した韓国人被爆女性、厳粉連さん、林福順さんが帰国。日本政府に申請していた被爆者健康手帳の交付は実現せず
1969/3/7
米政府原子力委員会が「ソ連の地下核実験によるとみられる地震波を記録した」と発表。ソ連セミパラチンスク地方が震源
1969/3/8
沖縄基地問題研究会(久住忠男座長)が沖縄返還後の基地の態様について最終報告書。「返還後の沖縄には日米安保条約を全面的に適用、事前協議も当然適用する」「沖縄への核配備の重要性はなくなった」と沖縄基地の「本土並み、核抜き」を打ち出す
1969/3/10
米上院本会議が核拡散防止条約の審議を開始。フルブライト外交委員長が条約の批准を勧告
1969/3/10
佐藤首相が参院予算委員会で、沖縄返還後の基地の在り方に関し「沖縄に核を置く必要はないのではないか。核が必要でないとの主張は可能だ」と答弁。「核抜き、本土並み」の沖縄返還交渉の基本方針がほぼ明確に。11日には沖縄配備の戦術核兵器ナイキ・ハーキュリーズについても「本土の自衛隊のナイキが核装備していないことは沖縄についても参考になる」と「戦術核抜き」も示唆
1969/3/11
英、西ドイツ、オランダ3国がロンドンで、遠心分離方式による濃縮核燃料の共同生産について原則合意。米の独占に対抗
1969/3/12
永野厳雄広島県知事が県会本会議で「原子力平和利用時代に備えて、県も広島大や原子力関連企業に相談相手になってもらうよう体制づくりをしたい」と表明
1969/3/13
米上院本会議が核拡散防止条約を批准。賛成83、反対15
1969/3/13
山田広島市長が市議会で、ボルゴグラード市との姉妹都市縁組について「今市会でも議会承認は求めない」と縁組を急がない方針を表明。縁組の動きはソ連のチェコスロバキア軍事介入で延びる
1969/3/14
ニクソン米大統領が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)計画の大幅修正を発表。ABMを大都市周辺に配置する都市防衛計画を放棄し、モンタナ州、北ダコタ州の戦略ミサイル拠点周辺への配置を決定
1969/3/17
「原爆発言」の源田実参院議員(自民)が記者会見で「発言は個人の考え方を述べたもので間違っていたとは思わない」と表明。佐藤首相には「国会運営で迷惑をかけた」と陳謝、自民党国防部会長を辞任。日程を繰り上げ16日に米から帰国
1969/3/17
オランダ・ロッテルダム市のアルバート・シュバイツァー病院後援会オランダ支部から山田広島市長に、原爆犠牲者の霊を慰めるバラの苗木100本が届く
1969/3/18
愛知揆一外相が参院外務委員会で「非核三原則を沖縄に適用するかどうかは検討中」と答弁
1969/3/18
ジュネーブ軍縮委員会が半年ぶりに討議を再開。地下核実験停止条約の討議促進やミサイル制限交渉の開始などを求めるウ・タント国連事務総長のメッセージが伝えられる
1969/3/19
琉球政府が那覇港での米原子力潜水艦の放射能汚染調査結果を発表。海底泥土から1,000マイクロ・マイクロキュリーの高いコバルト60を検出。同政府は「那覇港の海底にはコバルト60が長期間、広範囲に蓄積されていることを立証」と重視
1969/3/19
常石造船が国産第1号の原子力商船の基地を広島県御調郡向東町加島に建設する計画について、木内四郎科学技術庁長官が衆院科学技術特別委員会で「瀬戸内海は不適当」と答弁。「現在、青森県むつ市に建設中の基地以外に建設計画は全くない」
1969/3/19
レアード米国防長官が上院軍事委員会の秘密聴聞会で「中国、ソ連の核脅威が増大」と証言。中国について「増大し続ける中国の核脅威は1970年代の米の重大な国家安全問題の一つになろう」
1969/3/20
愛知揆一外相が参院予算委員会で中国の核開発について答弁。(1)中国は8回核実験を行い、20キロトン級、200キロトン級の原爆と3メガトン級水爆の3種類を保有と推定(2)水爆はミサイル弾頭として使えるほど軽量、小型化されたかどうかは疑問(3)長距離ミサイルは数年以内に実験成功が予想される
1969/3/21
広島市で18年間、平和運動を続けたバーバラ・レイノルズさんが広島を離れる。23日、羽田空港から米へ帰国。帰国後はペンシルベニアのクエーカー・スタディ・センターで広島の経験を基に著述を通じ平和運動を続ける。帰国に先立ち11日、同市平和文化センターが送別会を開き、坂田修一助役が「市のかぎ」を贈る
1969/3/25
政府が閣議で原爆被爆者に支給する特別手当の支給制限を緩和する政令を決定
1969/3/25
日本原子力委員会の再処理施設安全審査部会が、茨城県東海村に建設予定の核燃料再処理工場について「安全性に問題ない」との審査結果を発表
1969/3/26
原爆医療法の認定患者申請を却下された尾道市原田町の農業桑原忠男さんが、厚生大臣を相手に処分取り消し請求訴訟を広島地裁に起こす。「却下の理由が示されず、一方的な決定で納得できない。尾道市内ではこれまで12人が認定申請したが認められたのは2人だけ。全国には一方的却下に泣き寝入りしている人も多いと思われるので訴訟を起こした」
1969/3/26
広島県内の被爆した教師らが「広島県被爆教師の会」(会長、石田明・同県安佐郡高陽中教諭)を結成。小、中、高校教員と退職教員ら約300人が参加。原爆を中心にした平和教育の確立を目指す
1969/3/27
被爆都市の市長の功績をたたえ、山田広島市長に「ハマーショルド記念国際賞の金メダルを贈りたい」とイタリア・ミラノのハマーショルド記念国際賞委員会から連絡
1969/3/27
米へ帰った平和運動家バーバラ・レイノルズさんから「広島は常に私の心のふるさとです」との便りが広島市の広島YMCAに届く
1969/3/28
山口県原爆被爆者福祉会館の運営資金カンパを訴える映画「ヒロシマの証人」巡回上映会が徳山市民館で開かれる。29日も。山口、岩国、下関市など巡回へ
1969/3/29
「原爆被災全体像調査のための市民集会」が広島市の平和記念館で開会。同市が1969年度から被爆戸別地図の復元作業に着手するのに合わせ、市民協力を呼びかける。同市と同市婦人会連合会など10団体で作る委員会主催。田原伯原爆被災資料広島研究会事務局長や志水清広島大原医研所長らが問題提起
1969/3/30
アイゼンハワー元米大統領の国葬参列で訪米の岸信介元首相がワシントンで日本人記者団に語る。「ニクソン米大統領と会談し、できれば沖縄の『核抜き自由使用』を提案する」。31日、佐藤首相が「個人的な考えで、発言は行き過ぎ。基地の態様は未定」と述べる
1969/3/30
島根県八束郡鹿島町の御津漁協が臨時総会で、中国電力の原子力発電所建設に伴う、排水口から半径200メートル以内の漁業権消滅を認める。1日、同漁協と中国電力が排水口建設同意書に調印
1969/3/31
理化学研究所の同位元素研究室が、天然ウランから原子力発電の燃料の濃縮ウランを作る実験に初めて成功し、日本原子力学会(東海大)で発表
1969/3/31
広島大原医研に電子線型加速装置を据え付け。原爆の瞬間被爆が生体に及ぼす影響研究やがんの放射線治療の基礎研究などに活用
1969/3/--
広島県と広島市が共同で建設する被爆者養護ホームの基本設計が完成。同市舟入幸町の市立舟入病院の敷地内に鉄筋3階、地下1階を建設予定。7月着工へ

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