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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 5月


1969/5/1
「米戦略と海外防衛義務に関する米国防次官報告」第1部が完成-と米ホワイトハウスが言明。10年間の新核戦略の選択として拡大、縮小両面の5路線を策定
1969/5/5
広島「折鶴の会」が広島市の平和記念公園で「原爆の子の像」除幕11周年記念のつどいを開く
1969/5/7
ウ・タント国連事務総長が国連放射能影響調査科学委員会(米ソ英仏日など15カ国)に、核実験や原子力平和利用による放射能の影響について調査促進を要請
1969/5/7
仏原子力庁がインドに高速中性子炉の建設と技術者訓練を援助する協定を発表
1969/5/7
衆院社会労働委員会が原爆被爆者特別措置法改正案の審議で、参考人3人の意見を聞く。石田定広島原爆病院内科部長、伊東壮東京都原爆被害者団体協議会事務局長、石田忠一橋大教授。石田定氏は認定疾病患者の申請手続きの煩雑さ、伊東、石田忠氏は国家補償の精神に立った被爆者援護の必要性を強調
1969/5/7
衆院社会労働委員会の原爆被爆者特別措置法改正案の審議で、山田耻目氏(社会・山口2区)が「被爆死没者調査を1970年の国勢調査と同時に実行せよ」と政府を追及。岡部秀一総理府統計局長は「技術的に困難で国勢調査そのものに支障をきたす」と難色
1969/5/8
韓国の原爆被爆者治療問題について、衆院社会労働委員会で外務省アジア局の金沢正雄参事官が「韓国の医師を広島原爆病院などに呼んで研修をさせる計画を1968年11月に韓国政府に申し入れている」と明らかに。厚生省の村中俊明公衆衛生局長は「原爆医療法、原爆被爆者特別措置法は日本人以外にも適用するが、両法は一定地域で生業を営む者を対象とする属地主義に立っており、治療目的の一時入国者には適用できない」と説明。法務省も公費による治療目的のための日本渡航は許可しない方針を示す
1969/5/8
衆院社会労働委員会が原爆被爆者特別措置法改正案を10項目の付帯決議をつけて原案通り満場一致で可決。付帯決議は「1970年度の被爆実態調査の実施」など
1969/5/9
衆院本会議で原爆被爆者特別措置法改正案が全会一致で修正可決
1969/5/10
ソ連ボルゴグラード市の広島市訪問親善使節団一行3人が広島入り。団長はダニーロフ市議会副議長。遅れている両市の姉妹都市縁組について「似通った運命を理解し合い、今後より仲良くしていけば解決できよう」と語る。11日、広島「折鶴の会」と交歓会。16日、「人と文化交流を密にして両市の友好を深める」との共同コミュニケを発表。17日まで滞在。両市の縁組は1968年5月、山田市長がボ市を訪れ協定書に署名したが、ソ連のチェコスロバキア侵攻で広島市議会の承認が遅れ、発効せず。
1969/5/10
広島県立神辺工業高校の演劇部が府中市児童会館で原爆をテーマにした劇「静かなる朝」を上演。広島の原爆で失った青春を取り戻そうとする若者を描く
1969/5/11
爆心の広島市材木町の元住民が同市中島町、浄円寺で原爆25回忌法要。12年ぶり5回目。広島大原医研などの爆心地図復元作業の進展で、参列者も増え約100人
1969/5/11
米コロラド州ロッキー・フラッツのプルトニウム工場で火災、核ミサイル生産を中断
1969/5/13
出雲市の大津小と稗原小の合同修学旅行団の代表が、広島原爆病院に千羽づると文集を持って慰問。1963年から同市内15小学校が交代で続けてきたが、各校の慰問が一巡したこの年で終了
1969/5/14
政府が原潜放射能調査団の初の沖縄派遣を決定。総理府、科学技術庁、外務省の4人と放射能専門家3人の7人。19日沖縄入り、22日まで
1969/5/14
琉球政府の屋良朝苗主席がカーペンター米民政官に米原潜の沖縄寄港の事前通告もしくは同時通告を申し入れ。カ民政官は「事前通告は軍事行動に関係するので不可能」と拒否
1969/5/15
広島市千田町2丁目、薬局経営沢井万人さんが被爆当時の全町民の名前を記載した町籍簿を保存。市内の被爆戸別地図復元運動に活用へ
1969/5/15
愛知揆一外相が参院外務委員会で、核拡散防止条約について言明。「調印を考えてよい時期が近づいている。批准承認を求める国会は次の通常国会以降」
1969/5/16
中国新聞が原爆被災復元運動をテーマに夕刊1面で企画「空白を埋める」を掲載。20日まで4回
1969/5/17
上京中の屋良朝苗琉球政府主席が床次徳二総務長官に沖縄返還について4項目の要請書。「返還後の基地態様が『核付き、自由使用』では絶対困る」など
1969/5/17
広島県議会厚生委員会で松江澄氏(労働者党・広島)が原爆孤老問題で県を追及。「実態調査を進め、生活援護などの対策を」
1969/5/17
核禁会議が長崎市の平和公園で「平和の泉」起工式。諸谷義武市長をはじめ、全国核禁会議ブロックの代表100人が出席(「長崎年表」)
1969/5/17
原爆被災資料広島研究会が平和記念館で総会を開き、8月6日を目標に資料目録第1集の刊行などを決める。従来の代表世話人制から正副委員長制にし、委員長に田淵実夫前広島平和文化センター局長、副委員長に今堀誠二広島大教授、横田工広島原爆資料保存会会長を選ぶ
1969/5/19
来日中のキージンガー西ドイツ首相が佐藤首相と会談。核拡散防止条約について、今後、両国間で密接な連絡を取り協調していくことで意見一致
1969/5/20
原水禁国民会議の沖縄代表ら2人が沖縄返還問題を訴えるため米へ出発。「沖縄の生命を守る県民共闘」の仲吉良新副議長(沖縄原水協理事長)、社会党国際局外交委員会の牧新平事務局長。6月15日まで米各都市を歴訪。沖縄代表が渡米して返還問題を訴えるのは初めて
1969/5/20
近畿大原子力研究所(東大阪市)で放射性物質「鉛210」(1ミリキュリー)が3年間所在不明になり、科学技術庁が実情調査を始める
1969/5/20
広島市が車騒音に悩む広島原爆病院で、騒音、通行量調査。市公害対策課が対策検討へ
1969/5/20
広島大原医研の原爆医学標本センターが完成し、正式オープン。原爆医学標本の完全保存へ
1969/5/20
広島県原水禁(社会党・総評系)が第五福竜丸の保存募金運動に関し、広島独自で呼びかけチラシを作って街頭募金を実施する方針を決定
1969/5/21
政府が沖縄に派遣した原潜放射能調査団に対し、社会党・社会大衆党系の沖縄原水協が「秘密調査」と抗議声明。実地調査の際に報道関係者や一般住民の立ち入り禁止に抗議
1969/5/22
広島県教組、同広島支部、同県被爆教師の会が急性白血病の被爆二世、森井昭夫ちゃん(5歳)=国泰寺中教諭、一幸さんの二男=を救うため供血運動を決定
1969/5/23
中国電力が島根県八束郡鹿島町に建設する島根原子力発電所が、電源開発調整審議会で計画承認。1970年2月着工、1974年6月運転開始の計画が正式決定
1969/5/24
原水禁国民会議が被爆24周年原水禁世界大会の基調を協議。原水禁運動の共同行動に関し「日本原水協(共産党系)など他の組織に共闘を呼びかけ、相手から呼びかけがあれば応ずる」との態度を決める。原水禁運動の分裂以来、原水協に共同行動を呼びかけるのは初めて
1969/5/24
修学旅行で広島駅を通る北九州市立折尾中学の3年生が広島原爆病院への千羽づると詩集を広島市職員に託す。10年目
1969/5/24
米原子力潜水艦ソードフィッシュが横須賀港に入港。米原潜の日本寄港は29回目、横須賀は14回目
1969/5/26
広島市横川町2丁目、衣料品店経営内山新助さんが、被爆当時の旧横川町3丁目の世帯主309人の一覧表を、被爆戸別地図復元を進める広島大原医研に届ける
1969/5/28
自民党が愛知揆一外相から沖縄返還交渉の政府態度の説明を求める。「沖縄に憲法、日米安保条約、交換公文など現行法体系を本土同様に適用する方針で対米交渉に臨む」ことを了承。事実上の「核抜き、本土並み」方針に、同党内タカ派には根強い不満も
1969/5/29
社会党が沖縄返還交渉に関する佐藤首相への公開質問状を保利茂官房長官に手渡す。沖縄基地について「政府は『核抜き、本土並み』を主張すると言っているが、事実はほぼ現状のままの『核付き、自由使用』を意図し、それを本土にまで及ぼそうとしていることは明らか」
1969/5/30
動力炉・核燃料開発事業団が遠心分離法によるウラン濃縮に成功。この方法によるウラン分離は日本初
1969/5/31
急性白血病の被爆二世、森井昭夫ちゃん(5歳)を救うため新鮮血提供を申し出た約150人のうち10人が、広島血液銀行で血液型検査を受ける。広島県教組、同広島支部、同県被爆教師の会が供血運動を呼びかけ
1969/5/--
原爆ドームそばの広島市営駐車場とレストハウス撤去の検討を同市が始める。山田市長が「20数万の原爆犠牲者を慰霊する世界の聖域にふさわしくない」と指示
1969/5/--
「イスラエルは20キロトンの原爆を5、6発保有」と西ドイツ週刊誌シュピーゲルが報じる。「ネゲブ砂漠の秘密原子炉で原爆を製造」
1969/5/--
広島市が、平和記念公園の戦災供養塔に眠る原爆犠牲者の無縁仏のうち名前だけ分かる1,072柱を、8月6日に24年ぶりで原爆慰霊碑の死没者名簿に記入することに。広島戦災供養会の申し出を受ける

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