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ヒストリー

ヒロシマの記録1969 7月


1969/7/1
茨城県東海村の日本原子力研究所東海研究所で研究員3人が放射性同位元素トリウム170に汚染される事故が発生。許容量以下で人体影響はなし
1969/7/1
被爆当時、産業設備営団広島支所勤務の小野勝さん(広島市牛田町)の被災者救護体験記が、中国新聞夕刊に「原子雲と仮包帯」のタイトルで連載。23日付まで20回
1969/7/2
日本原子力研究所の東海研究所(茨城県東海村)で職員1人がプルトニウム239に汚染される事故。9日には同高崎研究所(群馬県高崎市)でも3人がコバルト60に汚染。いずれも人体影響はなし
1969/7/3
ジュネーブ軍縮委員会が再開。日本が初参加。朝海浩一郎首席代表が佐藤首相のメッセージを代読。一般演説で「均衡を保ちつつ核抑止力の規模を縮小し、核兵器の全廃に導くことが日本の理想と目標」と基本的立場を強調。その裏付けとして(1)核兵器の惨禍の経験と核兵器絶滅への国民的願望(2)憲法第九条と原子力基本法(3)非核三原則-の3点を挙げ、「日本政府の『戦争を放棄し核兵器を所有しない政策』は国民の悲願に基づいている」と述べる。戦後の軍縮交渉の場に日本が上がるのは初めて
1969/7/4
キッシンジャー米大統領補佐官がオーストリアのテレビ番組で、「米はソ連に対抗するため1974年末までに弾道弾迎撃ミサイル(ABM)70基を生産する」と述べる
1969/7/4
自民党の外交調査会正副会長会議が核拡散防止条約の調印問題を検討。同条約が非核保有国だけの査察を決めているほか、核の平和利用制限、核保有国と非保有国の核技術の差を拡大するなど問題点も多い-と慎重論
1969/7/6
日本原水協の「核兵器をなくせ、沖縄をかえせ、安保をなくせ国民平和大行進」長崎-広島コースの約60人が長崎市役所前を出発
1969/7/6
広島県佐伯郡五日市町、光禅寺の原爆死没者慰霊碑に納めてあった無縁仏1柱の身元が勝田弘君(被爆当時、広島市舟入中町在住、小1)と分かり、24年ぶりに五日市町内の兄姉が引き取る
1969/7/8
参院社会労働委員会で広島の平和運動家ら5人が原爆被爆者特別措置法改正案に関し参考人意見を述べる。原田東岷原田外科病院長、森滝市郎広島大名誉教授、山手茂東京女子大短期大学部助教授、庄野直美広島女学院大助教授、志水清広島大原医研所長。「特別措置法は不十分」と5氏の意見は一致。原田、森滝、山手、庄野の4氏が「国家補償の立場で措置が必要」と強調したのに対し、志水氏は「社会保障の理念を生かして充実させるべき」。この後、同改正案を可決、10項目の付帯決議も採択
1969/7/8
広島市教育委員会が「原爆記念日」を小中学校の児童、生徒に理解させる指導方針をまとめ、市立小中学校長会で事前指導に入るよう指示。1968年7月にまとめた手引書に沿い、原爆記念日の意義や原爆の被害状況、被爆者の現状、平和への願いなどを教える
1969/7/9
原爆被爆者特別措置法改正案が参院本会議で可決。4月1日にさかのぼり施行。特別被爆者が死亡した場合に葬祭料1万円を支給。健康管理手当(月額3,000円)の支給対象に白内障を加えることなども新設
1969/7/9
広島市基町地区の再開発事業である高層住宅建設第1期工事が計画より3カ月遅れ着工。敷地内の警察官公舎や派出所の立ち退き問題が長引き延びる
1969/7/10
「第五福竜丸保存委員会」が発足。東京・日比谷の松本楼で初会合。ビキニ水爆被災の証人を「原水爆博物館」として保存するため募金活動を開始。目標額は2,000万円。美濃部亮吉東京都知事ら呼びかけ人8人はじめ学者、文化人、宗教家ら84人が個人資格で参加
1969/7/12
広島県、市が建設する「広島原爆被爆者養護ホーム」が同市舟入幸町の市立舟入病院敷地内で地鎮祭。鉄筋3階、地下1階、原爆孤老ら150人を収容。1968年の原爆被爆者特別措置法の成立に伴い、広島市へ設置。建設費2億1,300万円の国庫補助事業で、残額は県、市で折半
1969/7/12
島根県原水協(社会党・総評系)が理事会で、平和行進と原水禁世界大会の行動計画を決定。同広島大会に70人を派遣。平和行進は21日に同県鹿足郡津和野町を出発、30日まで県内行進し、自治体と議会に「原水爆禁止、核武装阻止、被爆者救援」決議を要請へ
1969/7/13
広島県高田郡吉田町、徳栄寺に安置されていた身元不明の原爆犠牲者12柱のうち、広島市三篠本町、寺田ミヤコさん(当時26歳)の遺骨が、中国新聞広島版の報道をきっかけに24年ぶり夫の元へ
1969/7/14
8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席する遺族代表に、広島市上東雲町、主婦野村日出子さん、同市西十日市町、会社員手島一夢さんが決まる。被爆24周年で初めて既婚者が代表に。これまでは遺児
1969/7/14
総理府が「原子力の平和利用」に関する国民意識調査の結果を発表。原子力行政の参考にする目的で2回目。20歳以上の3,000人を対象、2,538人が回答(回答率84.6%)。「原子力」の言葉から「平和利用」を連想する人は第1回調査の2倍の34%、「戦争」を連想も63%。若年層が平和利用に積極性を示し、年齢が高いほど消極的
1969/7/14
被爆当時、救護班長として広島に入った因島市被爆者友の会会長、織田兼市さんが、看護した重傷の少年、広島市吉島西1丁目、会社員光本信人さんと24年ぶりに再会
1969/7/14
広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市の平和記念館で総会。「あくまで国家補償の精神に立った被爆者援護法制定を要求する」などの活動方針を決める
1969/7/16
広島県教委が8月6日を中心にした「原爆・平和教育の指導指針」をまとめ、同県内の小、中、高校へ学校ぐるみの指導を指示。「原爆の日の意義を理解させるとともに、一層平和を願う心情や態度を育てる」。同県教組の作成した平和教材「ひろしま」についても「内容に問題はなく活用してもさしつかえない」
1969/7/16
山田広島市長にイタリア・ミラノ市のハマーショルド記念国際賞委員会から金メダルが届く。「被爆都市の市長として人類愛と社会的活動に貢献」が受賞理由。日本人はイタリア文学者、野上素一京大教授に次ぎ2人目
1969/7/16
原水禁国民会議が原水禁世界大会で日本原水協と大会メッセージの交換を明らかにする。15日の原水禁全国実行委員会でも社会党、総評代表から強い要望
1969/7/17
佐藤首相が、8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式への出席要請を断ることを決定
1969/7/18
米海軍岩国基地のF4Bファントム戦闘爆撃機が岐阜県美濃加茂市の山林に空対空ミサイル「スパロー」1個を誤って落とす。同基地は「核装備はしていない」
1969/7/19
原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」のノーカット上映運動を続ける「原爆記録映画全面公開推進会議」が坂田道太文相に全面公開を求める要望書を送る。1968年12月に続き2回目
1969/7/19
「ベトナム反戦・広島と沖縄をむすぶ原水禁広島大会」が広島市千田町の市社会福祉センターで開会。約200人が参加。被爆24周年原水禁世界大会広島県実行委員会(社会党・総評系)の主催。沖縄と広島の連帯を強めるため、広島から沖縄被爆者救援の医師団派遣などを決議。ニクソン米大統領に「安保条約廃棄、在日米軍基地撤去、沖縄の即時無条件全面返還」を要求する電報を打つことを決定
1969/7/19
広島市の荒神町小学校が原爆記念日の事前指導を始める。被爆した教師の体験談や同校製作の原爆教育用スライドを鑑賞。8月6日までに各学年を指導
1969/7/19
広島地区反戦青年委員会の「労働者反戦集会」が広島市の平和記念館で開かれ、約300人が参加。8・6広島反戦集会の成功と佐藤首相訪米阻止がスローガン
1969/7/19
共産党が社会党に対し、原水禁運動の統一について両党間で協議したい-と申し入れ
1969/7/19
大阪市西区の絵画グループ「レアラ・ロンド」(島常武代表)の18人が広島原爆病院を似顔絵慰問。1968年に続き2回目
1969/7/19
広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)が広島市役所で総会を開き、被爆者保養センター建設や援護措置の拡充などを政府、国会に働きかけることを決める
1969/7/20
NHK広島中央放送局と広島大原医研が共同作業した広島市中島地区の爆心地図復元調査の記録「原爆爆心地」が日本放送出版協会から発刊(「奥付」)
1969/7/20
遊説のため広島市入りした社会党の江田三郎書記長が記者会見。「原水禁運動統一への足場を築く努力を続ける」
1969/7/22
原爆死没者名簿の公開が広島市の平和記念館で始まる。2年目。広島県佐伯郡五日市町役場で見つかった認許証請求書死亡診断書名簿325人分などが新たに加わり、計19点約7万4,000人分を公開。最終日の29日までに84人が肉親の名前を確認
1969/7/22
沖縄のナイキ・ハーキュリーズとホークのミサイル基地数カ所が1969年中に編成替えで活動を停止する-と在沖縄米陸軍司令部が発表
1969/7/23
社会党の中央執行委員会が共産党から申し入れのあった原水禁運動の統一行動への話し合いについて協議。「政党が方針を大衆運動組織に押しつけないという前提に立ち、政党レベルでの話し合いには応ずる」との態度を決め、共産党に回答。「いかなる国の原水爆にも反対する」かどうかの運動原則の統一は依然難しく、当面、一致する共通課題での統一行動実現への話し合いを探る
1969/7/23
核禁会議(民社党・同盟系)が全国代表者会議で1969年度の運動方針を決定。運動の重点を被爆者援護に置き、沖縄、安保問題は除外
1969/7/25
広島県警海田署の資料倉庫から「海田市警察署戦災検死調書」が見つかる。1945年8月6~20日までに同署管内(同県安芸郡海田、船越、矢野、坂、瀬野川、熊野町と熊野跡村)で亡くなった原爆死没者の検視調書。304人を記載。うち218人は遺族が判明、不明86人
1969/7/25
広島市が被爆25周年の1970年8月までに原爆慰霊碑を改修する方針を立て、慰霊碑の設計者の丹下健三東大教授と山田市長が市役所で具体策を協議。丹下氏が(1)形は変えず、現在のコンクリートから半永久的な御影石にする(2)碑前の広場を芝生から石畳に変える-などの構想を提案。9月市会に慰霊碑整備設計委託料など計上へ
1969/7/25
法務省入国管理局が第15回原水禁世界大会に参加する北ベトナム代表2人、南ベトナム臨時革命政府代表2人の入国拒否を決め、日本原水協に通告
1969/7/26
親善訪問のためヨットのフェニックスで長崎から上海に向かった米平和運動家アール・レイノルズ氏が広島港に帰る。6月12日出港、中国が入国拒否
1969/7/27
原爆死没学徒の25回忌法要と慰霊祭が広島市大手町3丁目の被爆学徒観音像前で行われ、約300人が参列。被爆学徒観音奉讃会(秋田正之会長)主催
1969/7/28
第4回原水禁科学者会議が東京・学士会館で開会。全国26大学、11研究機関の科学者75人が参加。日本原水協(共産党系)の協力で開かれ、ベトナム、安保、沖縄を中心に核問題に対する科学者の役割を論議。声明と化学生物兵器の禁止を訴えるアピールを採択
1969/7/28
日本宗教者平和協議会の壬生照順理事長らが美濃部亮吉東京都知事と都議会各党に「被爆者の慰霊と原水爆禁止の願いをこめ、8月6日と9日の原爆投下時間に黙とうを」と申し入れ
1969/7/28
広島原爆病院が1969年上半期(1~6月)の診療概況を発表。白血病の入院患者が1956年の病院開設以来初めてゼロに。重藤文夫院長「一応、白血病の発病は峠を越したのではないか」。外来患者総数は2万3,955人、前年同期より3,000人余減。入院患者は233人。高齢化や成人病患者の入院長期化が目立つ。死者は32人
1969/7/28
被爆前の広島市本通商店街の地図が広島県安芸郡坂町横浜の理髪店で見つかり、中国新聞社へ。本通1~5丁目の340店が克明に印刷
1969/7/28
広島県教組、同県被爆教師の会が編集した初の被爆教師の体験記「未来を語りつづけて-原爆体験と教育の原点」が労働旬報社から発刊。12人の教師が手記。年々減る教科書の原爆記述実態調査、児童生徒の原爆意識調査を通じて平和教育の実践を訴える
1969/7/28
郷里の大竹市に帰ったブラジル・サンパウロ州モンテアルト市在住の松村勲一さん夫妻が被爆者救援に2万円を広島市へ寄付
1969/7/28
中国電力がカナダのエルドラード原子力公社と「六フッ化ウラン」の購入契約に調印。島根県八束郡鹿島町に建設する原子力発電所1号機の最初の燃料の一部
1969/7/29
広島県教組や同県被爆教師の会などの供血運動に支えられ、急性白血病の被爆二世、森井昭夫ちゃん(5歳)が広島大付属病院を74日ぶりに退院
1969/7/29
広島市内に被爆者のための「ヒロシマ・ハウス」を建設したフロイド・シュモー氏が16年ぶりに同市を訪問。広島の復興ぶりに驚く。30日、江波地区のハウスなどを訪れ、故浜井前市長の墓参
1969/7/29
原水禁国民会議が8月4日に広島で開かれる日本原水協(共産党系)の第15回原水禁世界大会にメッセージを送ることを正式に明らかにする。原水禁運動の分裂後、初めて共同行動を呼びかけへ
1969/7/30
原対協が1969年度理事会を開き、被爆者の健康管理の充実のため、新たに日曜検診と子宮がん検診の実施を決める
1969/7/30
日本原水協の第15回原水禁世界大会国際予備会議が東京・学士会館で開幕。海外代表を含め約160人が参加。北朝鮮、北ベトナム、南ベトナム(臨時革命政府)代表は入国拒否される。ソ連代表は不参加。ホー・チ・ミン北ベトナム大統領のメッセージ、金日成北朝鮮首相の祝電が届く。最終日の8月2日、「核兵器、生物化学兵器など大量殺りく兵器完全禁止のための広島アピール」を報告
1969/7/31
日本原水協の第15回原水禁世界大会東京大会が東京都体育館で約8,000人が参加して開会。沖縄代表、第五福竜丸保存運動代表、被爆者代表らが決意
1969/7/31
ジュネーブ軍縮委員会で日本の朝海浩一郎代表が地下核実験について発言。地震学的探知方法を使い、二段階に分けて全面禁止にもっていく独自案を提出
1969/7/31
第7回日米貿易経済合同委員会でロジャーズ米国務長官と会談した佐藤首相が「沖縄返還後に核基地を置くことは全く考える余地がない」と米側の善処要望
1969/7/--
広島県教組が同県被爆教師の会と共同編集した平和教育教材「ひろしま」を発刊。A5判、64ページ。副題は「原爆をかんがえる」。被爆した子供の作文はじめ、原爆投下の歴史、破壊力、人体影響、今なお続く被爆者の苦しみ、平和運動などをまとめる。全国の教師に「試案」として配り、実践を通じて検証し再編集
1969/7/--
広島市が原爆で死傷した元警防団員の遺族、関係者らに動静の届け出を呼びかける。旧防空法によって防空業務に従事し死傷した元警防団員や遺族に本年度から支給される一時金の受給届け出が少ないため。同市内の警防団員の死亡確認は427人(6月末現在)、うち遺族判明は6割弱の251人
1969/7/--
世界連邦日本大会実行委員会が「世界連邦ヒロシマの歌」の歌詞を募集。「戦争のない一つの世界」の理念をヒロシマから訴える内容。7月15日締め切り
1969/7/--
原爆資料館が、原爆投下直後に広島市内で救援活動をした約200人の健康状態などを調べた「残留放射能による障害調査概要」をまとめる。対象は元陸軍船舶練習部第10教育隊と同船舶工兵補充隊の隊員のうち入市活動した400人で、回答は233人。半数近くが今も体の変調を訴え、原爆症と認定され死亡した人も13人
1969/7/--
広島大原医研とNHK広島中央放送局が共同で進めた爆心地図復元調査で、平和記念公園内の中島地区について調査がほぼ終わる。中島地区(中島本町、材木町、天神町、元柳町、中島新町の旧5町)の所在確認建物は654戸、関係世帯645世帯、うち7割強の467世帯の氏名、消息が判明。このうち当時在住は390世帯(1,113人)、既に疎開・移転が77世帯。在住者のうち850人が死亡(うち即日死亡708人)。在住者のうち被爆時に爆心500メートル以内にいた718人は全員死亡
1969/7/--
山口大社会学研究室の第2回原爆被害者実態調査の結果がまとまる。山口県内の被爆者191人を対象に生活、健康状態などを調査。被爆者の精神的不安や被爆二世問題も初めて取り上げる。被爆者は4割が病気がちで健康不安を抱え、被爆により人生、将来観が変化。6割近い親が「子供は被爆二世であることを気にしている」とみる
1969/7/--
岡山県原水協(稲垣武理事長)が今秋(1969年)から「検診車運動」を計画。被爆者用検診車で同県内を巡回し、被爆者健康手帳を受けていない隠れた被爆者の実態を調査。手帳交付者の検診も行う
1969/7/--
広島市青崎1丁目、無職西本オユキさんが、学徒動員中に被爆死した三男の博哉君(当時中学1年)の遺品である防空ずきんとネーム入り教練手帳入れを原爆資料館に寄贈
1969/7/--
東京・田無市の故指田(さしだ)吾一前市長が広島での被爆体験をつづった遺稿「原爆の記」が社会新報から出版へ。広島で軍医として被爆。田無市の初の革新市長で、8月6日には被爆記念集会を開いた「平和市長」
1969/7/--
岩手県花巻市高倉山温泉に同県原爆被爆者温泉保養センターが完成。岩手県被団協が「1,000万円募金」を通じ3年がかりで建設
1969/7/--
広島市の平和文化センターが発行した「平和の歩み」の英語版が完成。平和宣言の英文を添えて海外の平和運動団体に送ったり、広島訪問の外国人客に寄贈へ

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