×

ヒストリー

ヒロシマの記録1969 11月


1969/11/1
ソ連の共産党青年同盟機関紙がソ連地下核実験の詳細報告記事を掲載。1963年の部分的核実験停止条約の調印以来、地下核実験の事実を公表していないソ連が内容公開するのは初めて。実験日時、場所は不明だが核爆発で石油貯蔵庫を造る
1969/11/1
理化学研究所同位元素研究室がフッ素樹脂「テフロン」の薄膜を使ったガス拡散法によるウラン分離濃縮の基礎実験に成功し、日本原子力学会分科会で発表
1969/11/3
広島「折鶴の会」の会員が三次市三次町、専法寺の佐々木禎子さんの墓参り。禎子さんの記述がある東ドイツの中学2年生の教科書を持参
1969/11/4
渡米し在米被爆者と懇談した山田広島市長が帰国。「十分な診断、治療が受けられないので日本からの医師派遣などの要望が強かった。しかし日本人医師の米での診察、治療は米国医師法で認められていないなど問題も多いので、今後よく検討してみたい」。
1969/11/4
コーラスグループ「ダークダックス」が広島原爆病院を慰問
1969/11/7
自民党が外交、安保各調査会と科学技術特別委員会の合同会議で核拡散防止条約の取り扱いを協議。「同条約の精神には原則的に賛成する」と意思統一
1969/11/8
公明党が「沖縄米軍基地の実態調査」を発表。7月に設置した同党の沖縄基地問題特別委員会や沖縄県連が現地調査。沖縄米軍基地は148カ所、米軍数は5万3,000人。核や原潜用核爆弾もあると推定。政府に強力な対米折衝を要求へ
1969/11/8
日本原子力研究所東海研究所で職員2人が放射性水銀197、同203に汚染されていたことが判明。10月8日、取り扱い不注意から放射性水銀の蒸気を吸い込む。許容量以下だが体内被曝では同研究所の事故で最高値
1969/11/8
大阪万国博の日本政府館に飾る原爆展示タペストリーが京都・西陣の竜村美術織物で出来上がり、仕上げカット作業。原子雲の下に死の街を図案化
1969/11/9
厳敏永駐日韓国大使が広島市を訪れ、韓国の被爆者援護問題について語る。「韓国には原爆症の専門医が少ないため健康に不安を抱いている被爆者が多い。日本人専門医の派遣の動きなどが民間で盛り上がるなら大歓迎で、大使館としても実現に積極的に協力したい」
1969/11/10
米平和運動家ノーマン・カズンズ氏(「土曜文学評論」主筆)夫妻が広島を訪れ、同市内のホテルで開かれた懇談会で原爆乙女18人と5年ぶりに再会。精神養子のノーマン・ササモリ君(7歳)も同伴。12日、平和記念館で精神養子と懇談。同日まで滞在
1969/11/10
上京中の屋良朝苗琉球政府主席が日米首脳会談を控えた佐藤首相に、沖縄返還についての沖縄県民の意思を文書で伝える。(1)沖縄の即時無条件全面返還の実現(2)核兵器やB52戦略爆撃機、毒ガス兵器などの完全撤去(3)原潜の寄港中止(4)基地自由使用、B52その他攻撃兵器の発進を許さない-など
1969/11/11
第9回世界連邦日本大会が広島市公会堂で全国の約1,000人が参加して開会。大会会長の山田広島市長があいさつ。世界連邦主義者世界協会会長のノーマン・カズンズ氏が「核時代の無意味な暴力から世界を救う努力を続けるつもり」と述べ、永久平和への誓いを新たに。「国連の機能を強化し、世界連邦を樹立するための国会決議の実現を図る」などを盛り込んだ大会宣言を採択
1969/11/11
原爆資料館に被爆直後の市街地を示す新しいパノラマが完成し、山田広島市長が除幕
1969/11/11
長崎市立原子爆弾被爆者健康管理所の起工式。市立長崎病院内に建設、1970年3月に完成(「長崎年表」)
1969/11/12
社会党の大原亨氏が米ワシントンで行われるベトナム反戦デモに参加するため羽田を出発。「ノーモア・ヒロシマ」「沖縄即時返還」「ベトナム即時撤退」などと書いたちょうちんを掲げてデモ参加の予定
1969/11/13
日本原子力委員会が動力炉・核燃料開発事業団の計画する新型転換炉原型炉の建設を認める。福井県敦賀市に建設
1969/11/14
仏政府がエネルギー政策に関するコミュニケを発表。原子力発電を従来の天然ウラン利用の仏方式から濃縮ウラン利用の米方式に移行。経済性を重視
1969/11/14
歌手のペギー葉山さんが広島原爆病院を慰問。2回目
1969/11/16
佐藤首相の訪米に反対する「安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還、佐藤訪米抗議」の中央集会(社会党・総評系)が東京・代々木公園で開かれ、総評、中立労連の労組など7万人が参加。「核安保化を許さぬ」と気勢
1969/11/17
米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)がフィンランドのヘルシンキで開始。3、4週間の予定
1969/11/17
国連総会第1委員会の軍縮問題討議が開始され、米ソ代表が海底軍事利用禁止条約の速やかな承認を要請
1969/11/18
米ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙(18日付)が社説で「沖縄の米軍基地は核付きで期限をつけず保持すべき」と主張
1969/11/19
ソ連国防次官兼戦略ロケット軍総司令官のクルイロフ元帥が共産党機関紙プラウダで「ソ連は世界で最強力の核弾頭を開発した」と述べる
1969/11/21
ワシントンの日米首脳会談で、「沖縄の1972年返還、安保完全適用」が決まり、ニクソン米大統領と佐藤首相が共同声明を発表。焦点の「核」について、声明第8項で「総理大臣は核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し大統領は深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米政府の立場を害することなく、沖縄の返還を日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」と記す。返還時の「核抜き」を示唆しつつ、返還後の「有事核持ち込み」にも含みを残す
1969/11/21
日米共同声明を発表した佐藤首相がワシントンで日本人記者団と会見。「核抜き返還」について「核兵器は沖縄から撤去されることを意味する。積極的に核をなくすると言えばハッキリするが、核の性格からそう言わないことを理解してほしい。私はニクソン米大統領との会談で確信をもって大丈夫と思った」と語る
1969/11/21
日米首脳会談を終えた佐藤首相がニューヨークで「沖縄百万同胞に送ることば」を発表。その中で「沖縄県民の皆さまはじめとするわが全国民の長年の念願であった沖縄の祖国復帰が、1972年に『核抜き、本土並み』という国民の総意に沿った形で実現することになりました」
1969/11/21
米権威筋が沖縄返還の「核問題」について語る。「ニクソン大統領は今度の日米会談で佐藤首相から日本の安全を脅かすような戦争緊急事態が起こった場合、沖縄に再び核兵器を持ち込むことに扉を閉ざさないとの暗黙の保証を受けた」
1969/11/21
愛知揆一外相が日米共同声明を解説した説明文を発表。声明をめぐる政府統一見解で、「核問題」について「沖縄の核抜き返還が明らかにされた。米政府の最高責任者である大統領の『確約』であるからには、返還時における核兵器の撤去についてこれ以上の明確な保証はない。返還後の沖縄にひそかに核兵器を存置しておくというような、いわゆる『核隠し』などは到底問題となり得ない」
1969/11/21
日本で最初に「原子の火」をともした茨城県東海村の日本原子力研究所の1号炉が12年間の運転を終え、引退式。原子力開発研究に成果を残す
1969/11/23
1962年から8年間、自作の民芸品を広島の原爆被爆者に贈り続けている山口県美祢郡秋芳町の民芸作家蔵本重之さんが、同町文化祭で町選奨条例に基づく篤行者表彰を受ける
1969/11/24
ニクソン米大統領が核拡散防止条約の批准書に調印
1969/11/24
ソ連最高会議幹部会がモスクワで開かれ、核拡散防止条約を批准
1969/11/25
全ソ連労組中央評議会の一行121人が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学、広島原爆病院を慰問
1969/11/26
日米首脳会談を終えた佐藤首相が帰国し、記者会見。「返還後の沖縄は核抜き、本土並みで有事核持ち込みもない」と強調。事前協議に関しても「非核三原則を堅持」と表明
1969/11/26
佐藤首相の帰国記者会見に対し、各野党が批判談話を発表。社会党「首相は『核を絶対に持ち込まぬ』と明確に断言しなかった。国会で非核武装決議をせよ」。民社党「核持ち込みの拒否が不明確」。公明党「日米共同声明は極めてあいまいな表現が多く、国民に多くの疑惑を残している」。共産党「国会での徹底審議を要求する」
1969/11/27
広島市議会厚生委員会で、広島市原爆被爆者協議会の任都栗司会長が原爆医療保養研究センターの建設計画を説明。全会一致で協力を申し合わせる。場所は未確定だが同市戸坂町の流谷団地(市有地)の予定も
1969/11/27
日本原子力委員会が動力炉・核燃料開発事業団の計画している使用済み核燃料再処理施設(茨城県東海村)の建設を認可。周辺海域の汚染防止体制を条件
1969/11/27
スイス政府が核拡散防止条約に調印。28日、西ドイツも
1969/11/28
沖電気工業労組が全国の組合員カンパで集めた10万2,500円を被爆者救援に広島市へ寄付
1969/11/29
米政府原子力委員会が「29日、ソ連が核実験を行った振動をとらえた。規模は中程度」と発表
1969/11/--
ソ連がSS9ミサイル使用による軌道爆弾体系(FOBS)の配備を開始した-との見方を米国防総省首脳部が固める

年別アーカイブ