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ヒストリー

ヒロシマの記録1968 2月


1968/2/1
社会、民社、公明の3党がそれぞれ「非核武装決議案」を国会に提出
1968/2/1
政府が安保条約の「事前協議」で統一見解。「事前協議の中で、重要な配置というのは、陸軍1個師団以上、海軍1機動部隊以上、空軍は1航空師団以上が事前協議の対象になる」
1968/2/1
被爆者ホームの建設で永野厳雄広島県知事と山田広島市長が合意。3ホームのうち一つは特別養護ホーム、二つは一般被爆者ホーム。共同歩調で建設計画をたて国へ働きかけ県、市も予算化を進める
1968/2/1
日本学術会議の原爆被災資料小委員会(委員長、永積安明神戸大教授)が、1970年国勢調査で被爆者総数をつかむための調査を併せて実施するよう政府に勧告を決める。4月の総会に;pって提出へ
1968/2/1
米国防年次報告が「中国は年内に準中距離弾道ミサイル(MRBM)を配備し、1970年代中ごろまでにはある程度のMRBM戦力を実戦配備できる」と推定
1968/2/2
村中俊明厚生省公衆衛生局長が広島市で記者会見し「認定被爆者の援護手当、月額1万円は生活保護法の収入認定の対象になる」と言明。救済策として生活保護費への加算を検討
1968/2/2
山田広島市長が「原爆スラム対策は、県主張の住宅地区改良方式(国庫補助三分の二)で進めることで合意した」と発表
1968/2/2
原爆被爆者対策が、原爆医療法と新しく制定される「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律案」(仮称)の2本立てが確実に
1968/2/5
中国電力島根支店が松江原子力調査所を島根原子力建設準備本部に衣替え。スタッフは28人
1968/2/5
佐藤首相が衆院予算委員会で核問題に関して所信を表明。(1)非核三原則、核兵器の絶滅、平和利用の努力、安全確保のための米核抑止力依存-の核政策四原則を政治生命をかけて守る(2)非核武装決議は時期尚早
1968/2/6
倉石忠雄農相が「強力な軍隊を持て。バカバカしい現憲法」「日本も原爆を持って30万人の軍隊でもあったら…」などと放言
1968/2/6
広島市の明治100年記念事業の「大本営復元」に対し広島県教組や一部父母が反対運動。広島城跡に元大本営を復元し、明治、大正、昭和の資料と明治天皇の遺品を収めようとの案
1968/2/8
社会、公明、共産の3党が「いっさいの核兵器の持ち込みに反対」など5項目の共同声明。非核共同決議案の国会提案でも合意
1968/2/9
婦人民主クラブ広島支部(楠登喜子支部長)が「米返還原爆映画はノーカットで一般公開してほしい」との要望書を灘尾弘吉文相、山田広島市長らに送る
1968/2/10
広島県労会議が永野厳雄広島県知事と山田広島市長に大本営の復元反対を申し入れ
1968/2/10
ラスク米国務長官が上院に「これまでベトナムで米軍の核兵器使用を検討したことはない」との書簡を送る。フルブライト上院外交委員長の質問への回答。国務省が15日に発表
1968/2/12
社会、公明、共産3党が衆参両院に共同で「日本の非核武装と核兵器禁止に関する決議案」を提出。(1)核兵器の実験、製造、保有、使用、持ち込みの禁止(2)核兵器使用禁止国際協定の締結促進
1968/2/12
広島県が広島市基町の原爆スラム対策の調査費として1,000万円を計上
1968/2/12
米が軌道兵器迎撃ミサイルの開発を決める。ワシントン・ポスト紙が報道
1968/2/13
ジュネーブ軍縮会議でロシチン・ソ連代表が「グリーンランドでの水爆搭載機墜落事件のような爆撃機の飛行は1963年の部分核停条約や国際法に違反する」と米を非難
1968/2/15
米原潜クイーンフィッシュが横須賀港に入港。原潜の日本寄港は20回目、横須賀は8回目
1968/2/15
広島市内で原爆被災資料の収集活動を続けている組織、団体代表、個人が平和記念館に集まり、「原爆被災資料広島研究会」を結成。発起人は今堀誠二広島大教授、横田工原爆資料保存会会長、田原伯氏ら
1968/2/19
広島青年会議所(杉原昭三理事長)が英の最高峰ベンネビス山(1,343メートル)山頂に設置する「世界平和を祈る石板」が完成。碑文は「ヒロシマの悲劇を世界平和のいしずえに」。山ろくの町フォートウイリアム市の青年グループからの依頼による
1968/2/22
広島県立海田高校教諭、名越謙蔵さんの二男、史樹ちゃんが「ぼく生きたかった」の言葉を残して白血病のため死去。7歳
1968/2/24
湯川秀樹、大内兵衛、朝永振一郎、宮沢俊義、我妻栄、谷川徹三の6氏を含む全国の学者、評論家、作家ら文化人グループ51人が「非核武装に関する国会議員各位への要望書」を発表。重藤文夫広島原爆病院長らも加わる。「外国の核兵器に依存してみずからの安全を求めようとする政策は、核兵器廃絶の要求に逆行し、他国に対する核威嚇への加担を意味し、わが国の安全を危うくする」
1968/2/25
フルブライト米上院外交委員長がABCテレビで、ベトナムでの核兵器使用反対を表明。「米はアジア人に対して核兵器を使った唯一の国であるから、再びそれを使うことを避ける態度を堅持すべき。米がベトナムで戦術核兵器を使用する必要のないように軍事的にも、外交的にもやっていけない理由はない」
1968/2/26
原水禁国民会議が全国で日本の非核武装宣言実現を要求する一斉街頭行動
1968/2/26
佐藤首相が衆院予算委員会で「核の傘」で見解表明。「米の核による戦争抑止力を信じている。米はあらゆる場合に日本を守るといっている。核抑止力に頼れば戦争はない。戦争を仕掛けてくるものもない」「中国が核を持っていることに脅威を感じない国はどこにもない。核がそばにある限り、米の核抑止力に頼るのは当然だ」
1968/2/26
「原爆市長」で知られる浜井信三前広島市長が、平和記念館で開かれた広島地方同盟の会議の席上、心筋梗塞のため死去。62歳。1935年、広島市役所に入り、配給課長時代に被爆。終戦直後、助役となり1947年4月、地方自治法制定による戦後初の市長選に出馬し当選。以後、中1期おいて通算4期市長を務め、1967年4月に引退。森滝市郎日本被団協理事長「浜井さんはヒロシマの事実を積極的に世界に訴えた。ヒロシマの象徴的な人だった」
1968/2/26
ワシントンで、1968年末に期限切れとなる日米原子力協定に代わる日米新原子力協定に調印。有効期間30年。濃縮ウランの民間所有を認める
1968/2/29
原水禁国民会議が静岡市でビキニ被災14周年全国大会。1,000人が参加。1日に閉会総会。B52の沖縄・嘉手納からの撤退、被爆者援護法実現、日本非核武装宣言実現などを決議
1968/2/29
日本原子力研究所が無期限ストライキを続けている同研究所労組に対し原研動力試験炉(JPDR)のロックアウトを通告。労組は研究所の人員合理化案に反対し2月21日からストライキ
1968/2/29
ライシャワー前米駐日大使が米下院外交委員会アジア太平洋分科委員会で証言し「沖縄の米軍基地の扱いは『本土並み』が望ましく、核防衛上の問題は、ポラリス・ミサイルやグアム島基地で果たすことが可能と思う」
1968/2/--
米国務省のフレッド・グリーン情報調査局東アジア太平洋部長が「米国の政策とアジアの安全保障」を出版。米の核戦力の管理に日本も参加する「日米2国間海上核戦力」の創設を主張。「日本側がこの2国間海上核戦力の創設に同意し、同戦力に属する艦艇の日本への寄港、本土基地からの前線派遣承認など日米核同盟の条件を満たせば、沖縄返還も実現する」

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