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ヒストリー

ヒロシマの記録1968 7月


1968/7/1
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が中央アジアでソ連の地下核実験とみられる振動を記録
1968/7/1
ジョンソン米大統領がワシントンの核拡散防止条約調印式で演説。「米ソ両国は大陸間弾道ミサイル(ICBM)と弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の制限と削減交渉の開始に合意した」と発表▽コスイギン・ソ連首相もモスクワの調印式で演説。各国政府に軍備競争停止と軍縮に関する覚書を送り、軍縮9項目を提案
1968/7/1
ワシントン、モスクワ、ロンドンで核拡散防止条約の調印式。62カ国が調印。日本は初日の調印には加わらず
1968/7/1
中国が国連の非核保有国会議招請を拒否。国連が発表
1968/7/2
核拡散防止条約について木村俊夫官房長官が「西ドイツと協議の上、調印」と表明
1968/7/2
「那覇軍港の放射能は微量で無害」と米民政府が発表。採取した海水と海底泥をアラバマ州モントゴメリーのサウスイースト研究所で調べた結果、自然放射能程度の微量検出
1968/7/4
原子力委員会が群馬県高崎市の日本原子力研究所高崎研究所に放射線の「食品照射研究開発試験場」の設置を決める。虫害、青かび発生、腐敗などの防止を研究
1968/7/4
中国電力が島根県八束郡鹿島町に建設する島根原子力発電所の準備工事着工式。道路、トンネル、前線基地づくりなど
1968/7/4
原子力委員会が核融合動力炉開発の基本方針を決める
1968/7/5
原水爆禁止広島市協議会が平和記念館で理事会。空席の会長問題、活動方針などを話し合い、平和団体に呼びかけ連絡協議会の発足を決める。会長は1967年5月、山田広島市長が就任を断り空席に
1968/7/5
原潜寄港・汚染問題調査研究委員会(代表、三宅泰雄東京教育大教授)が東京・市谷で「原子力艦艇の寄港に反対する科学者集会」。研究者ら約200人が参加
1968/7/5
日本原水協が第14回原水禁世界大会に参加する南ベトナム民族解放戦線代表2人の入国を申請 1968/7/7
仏が「太平洋ムルロア環礁上空で中型の核装置を爆発させた」と発表
1968/7/8
外務省が仏核実験で抗議談話。「政府は人道上および核軍縮促進の見地から、あらゆる核実験に反対である。仏が核実験をしたことはきわめて遺憾で、強く抗議し、即時中止を要請するよう駐仏大使に訓令」
1968/7/9
原水禁国民会議の平和行進団(東京-長崎)が広島市の平和記念公園に到着、原爆慰霊碑に参拝。通し行進は日本山妙法寺の田島瑞泰師
1968/7/10
原水禁国民会議が被爆23周年原水禁世界大会の国際会議を、外国代表の要望で東京から広島に変更
1968/7/11
科学技術庁が「原子力平和利用で世論調査」。3人に1人は「原子力」という言葉で「原水爆、広島・長崎、原潜」をイメージ。安全性などに強い不安感
1968/7/11
未公開写真4枚を含む写真集「原子爆弾による広島市被害状況写真集」の持ち主が名乗り出る。陸軍暁部隊船舶司令部の写真班、川原四儀(広島市)、尾糠政美(島根県川本町)、木村権一(広島市)氏ら。写真は8月8日ごろから撮り、計25枚。写真集は6部作製と証言
1968/7/13
日本原水協が日本被団協と関係正常化の覚書取り交わす。森滝市郎日本被団協理事長が「個人の行動が、諸方面に支障をきたしたことに遺憾の意を表明する」ことで、原水協は被団協活動費52万円の凍結を解除。両者の関係は1964年、森滝氏が日本被団協理事長の名で原水爆被災3県連絡会議に参画したことからこじれていた。被団協副理事長の行宗一氏が原水協代表の田沼肇氏と話し合い決着。森滝市郎氏「活動資金を凍結され活動に支障をきたしたことに遺憾の意を表したのであって、原水協に遺憾の意を表したのではない」
1968/7/13
中国新聞が原水禁運動、核問題に対する広島の被爆者の意識を問う「ヒロシマの心を探る」世論調査結果を報道。対象=特別被爆者健康手帳所持者500人と、手帳を持っていない広島市内の有権者500人。「原水禁運動、被爆者団体が被爆者から遊離」。「広島市内には被爆者健康手帳所持者以外に多くの被爆者がいる」
1968/7/14
中国新聞社が広島市の平和記念館で公開シンポジウム「核時代とヒロシマ」を開催。1967年夏に続き2回目。講師に東大の日高六郎教授、関寛治助教授、今堀誠二広島大教授、医師原田東岷の4氏
1968/7/14
日本被団協が山口市元町、山口県被爆者福祉会館で全国代表理事会。被爆者特別措置法を不十分とし政府との対決姿勢を打ち出す
1968/7/15
核禁会議が準備不足などから1968年の国際会議を中止。松下正寿議長が参院東京地方区から当選し辞任、後継議長を選考へ
1968/7/15
仏がムルロア環礁でこの年2回目の核実験。中規模と発表
1968/7/16
広島市横川2丁目町内会の義勇隊138人の死亡者名簿が当時の町内会長宅で見つかる。「国民義勇隊員として出動中原子爆弾により負傷しまたは疾病にかかりこれにより死亡したものの調」
1968/7/16
政府と日本学術会議の連絡機関、学術会議連絡部会で、学術会議から申し入れのあった被爆資料の散逸防止について政府が「趣旨に全面的に賛成する。とりあえず、原爆関係公文書の散逸防止に留意する」と回答
1968/7/18
広島県宗教連盟(大巳静男理事長)が1970年8月の原爆記念日にローマ法王パウロ六世を超宗派で招請することを決める。法王は5月下旬、山田広島市長との謁見で、「被爆25周年に広島を訪問したい」と述べている
1968/7/18
福山市が全世帯を対象に被爆者実態調査。市単独の全数調査は初めて
1968/7/18
原水禁運動の再生をめざす「平和のために市民の対話を進める会」(世話人、今堀誠二広島大教授、原田東岷医師)が広島YMCAで8回目の例会。森滝市郎原水禁国民会議代表委員、佐久間澄日本原水協代表理事が個人の資格で出席「早急な組織の統一ではなく、まず運動の統一を積み重ねたい」
1968/7/19
長崎市の原爆小頭症患者が長崎県内で初めて原爆症と認定される。長崎市内の胎内被爆者987人のうち原爆小頭症患者は11人と推定(「長崎年表」)
1968/7/20
西島有厚氏著の「原爆はなぜ投下されたか-日本降伏をめぐる戦略と外交」が青木書店から出版。「本土上陸があったとしても犠牲者は数万人、戦争を早期に終結させた最大の理由はソ連の参戦。原爆は無意味に大量殺りくをしただけ」
1968/7/20
広島市が平和記念館で広島東署原爆死亡者検視調書、戦災供養塔納骨名簿、柳井・呉両国立療養所の軍人被爆者名簿など14点、1万5,922人分を公開し、遺族捜し。供養塔納骨名簿は広島戦災供養会が1946年5月に遺骨を集め確認した1,151柱と、供養塔が完成した1955年7月、己斐町の善法寺から届けられた1,204柱の計2,355柱の名前
1968/7/23
外務省が、日本原水協の第14回原水禁世界大会参加の北ベトナム、南ベトナム民族解放戦線、北朝鮮の入国拒否を法務省に勧告。法務省は24日、入国不許可を日本原水協に通告
1968/7/23
山田広島市長が佐藤首相を訪ね8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席を要請。首相は「国会開会中なので、閣僚級の代理を出したい」
1968/7/24
原爆医療審議会の中泉正徳会長が、広島市役所で「原爆放射能障害に関する研究費」(600万円)の研究内容を発表。健康管理、生活機能調査、悪性新生物の3つが柱
1968/7/25
広島市職員の高橋昭博さんが自らの奇形の黒いツメを原爆資料館に寄贈
1968/7/26
日本原水協の第14回原水禁世界大会にソ連平和委員会のレリン・ウラジミール・ヤコフレウイッチ氏ら4人が出席へ。原水協の大会へのソ連代表参加は5年ぶり。背景に日ソ共産党の雪解けムード=結果的には実現せず
1968/7/26
広島YMCAで原爆記録映画全面公開推進会議の呼びかけ人会議。庄野直美広島女学院大教授、森滝市郎日本被団協理事長、広島県原水協(共産党系)の三宅登、広島県原水禁(社会党系)の浜本万三氏ら出席。カットされた場面の被爆者の確認運動展開へ
1968/7/26
東京・学士会館で第3回原水爆禁止科学者会議。全国から100人参加。安部一成山口大教授が原水禁運動の統一について特別講演。「純粋原水禁運動を志向する国民的基盤に立った運動の統一を呼びかけよう」
1968/7/26
文部省が日本原水協への原爆記録映画の貸し出しを不許可。原水協は「原水禁世界大会に参加する海外代表に原爆の悲惨さを目で確かめてほしい」と申請
1968/7/26
山陽路訪問中の明仁皇太子夫妻が広島入り。市内で13万人が出迎え。原爆慰霊碑に参拝、森弘助治館長の案内で原爆資料館を見学。夜、日程を特別追加し重藤文夫広島原爆病院長と志水清広島大原医研所長を招き、被爆者の生活や治療について聞く。28日は原爆病院をお見舞い
1968/7/27
広島市が平和への取り組みをまとめた「ひろしま平和のあゆみ」を発行。編集委員は田淵実夫広島平和文化センター局長、小谷鶴次、今堀誠二広島大教授、庄野直美広島女学院大教授
1968/7/28
日本原水協が第14回原水禁世界大会への世界平和評議会(本部ウィーン)の代表2人の受け入れを拒否。「2人は原水禁国民会議の世界大会にも参加し、他団体の大会に参加する代表は認めないという方針に反する」
1968/7/29
広島原爆投下機エノラ・ゲイ乗員の証言「ヒロシマへの七時間-原爆を運んだ12人の記録」が日本経済新聞社から出版。ジョセフ・マークス氏著
1968/7/29
日本原水協の第14回原水禁世界大会に参加予定のソ連代表4人(ソ連平和委員会)と、原水禁国民会議の被爆23周年原水禁世界大会に参加を予定していたソ連代表(ソ連平和基金書記)が来日を中止。社共両党との友好関係を配慮
1968/7/29
中国新聞が「幻の原爆記録映画」特集で被爆直後に撮ったという映画3本を紹介。(1)当時の日本映画社大阪支社カメラマン柏田敏雄氏さんが撮影したという被爆2日後のフィルム(2)同社東京本社カメラマン柾木四平さんが被爆2日後から約10日間、撮ったというフィルム(3)広島市宇品町、会社社長河崎源次郎さんが撮影したという被災当日の8ミリフィルム。いずれも現物は見つかっていない
1968/7/30
米返還原爆記録映画全面公開推進会議が、登場者11人の承諾書を添えノーカット版公開を文部省に要請
1968/7/31
広島市公会堂で創作バレエ「広島のいぶき」。広島市千田町の松本ナツ子モダンバレエ研究所公演。被爆から立ち上がり、平和を訴える市民を描く
1968/7/31
日本原水協の第14回原水禁世界大会国際予備会議が東京・学士会館で開幕。2日まで。6カ国2国際団体から15人の海外代表。日本代表約100人。ソ連代表団は参加を見送る。米の「ベトナム侵略」批判が中心。中ソ両国を暗に批判する「自主独立路線」が特徴
1968/7/--
広島市教委が市立校に平和教育の導入を決める。ヒロシマ、被爆者、復興、原水爆禁止運動などを体系的に教える。「原爆教育の手引」も作成へ
1968/7/--
核拡散防止条約の調印時期をめぐり外務省が慎重態度。「野党の了解を得たい。批准案件提出は1969年の通常国会、急ぐ必要はない」
1968/7/--
プラハ国際テレビ祭・ドキュメンタリー部門で広島テレビ制作「人間、そのたくましきもの」のディレクター杉原萌氏が最優秀監督賞を受賞。作品は原爆3部作の1つ。2年間にわたって広島の一被爆者の家族を追跡、その日常を通して人間のたくましさを描く
1968/7/--
広島平和文化センターが広島県内の市町村、官公庁へ「原爆資料を捨てないで」と依頼文発送へ
1968/7/--
被爆者特別措置法に伴い広島、長崎に建設が決まった「原爆養護ホーム」の運営方法をめぐり、自治体の直営を主張する大蔵省と、法人化を主張する地元が対立。予算7,500万円の執行が困難に
1968/7/--
原爆記録映画全面公開推進会議の調べで登場人物が7人判明。2人生存、5人死亡。健在の尾道市、田中幸子さんは「全面公開に賛成」
1968/7/--
原爆被災資料広島研究会の山崎与三郎氏が、原爆遺跡の一覧表「広島市内原爆遺跡調査」と、遺跡を200枚の写真に収めた「原爆遺跡写真集」をまとめる
1968/7/--
広島国道工事事務所、県、市が、原水禁運動の道路への立て看板、ポスターを不許可に
1968/7/--
東京・芸術生活社の芸術生活画廊第1回公募展に入賞した富田文雄氏の版画展。「クラゲ」の題名で原爆テーマ
1968/7/--
米返還原爆記録映画から長崎市西山地区の残留放射能を示す部分がカットされていることがわかる。「西山地区には自然放射能の260倍という強い放射能を示す地点がある」が消え、地図、図表、グラフもカット。文部省「市民に不安を与える可能性があり、一般に誤解されてもいけない」と釈明
1968/7/--
NHK広島放送局の「爆心復元運動」が続く。1967年からの長期ドキュメンタリーで8月4日「爆心の空白」、7日「完成間近い爆心地図-中島本町」、8日「動きだした住民たち」、9日「広がる爆心復元運動-天神町ほか」「爆心復元調査の今後」
1968/7/--
原水禁運動の統一を呼びかけ東京・武蔵野市の芸術家、学者ら26人が市民運動。東京経済大の中村金治教授が音頭をとり彫刻家北村西望、詩人金子光晴、作家藤原ていさんら同調
1968/7/--
長崎市が建設した原爆殉難者名奉安所が平和祈念像前に完成(「長崎年表」)

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