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ヒストリー

ヒロシマの記録1967 6月


1967/6/4
広島県被団協(森滝市郎理事長)が広島市で被爆者援護法の制定を訴える街頭署名と募金活動
1967/6/5
社会党が被爆者救済を主目的とする「原爆医療法」「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」の改正案を国会に提出
1967/6/5
仏国防省が「ムルロア環礁の核実験場で新たな低威力の核実験を開始した」と発表
1967/6/6
核禁会議が全国代表者会議を開き「第2回アジア核禁会議」の日程など決める。初めてベトナム戦争を取り上げ解決の糸口を討議へ
1967/6/6
山田広島市長と浅尾義光市議会議長が建設省の前田光嘉事務次官に広島平和記念都市建設法の存続を陳情。前田次官は「存続の方向で検討する」と答える
1967/6/7
北ベトナムへ医薬品を運んだアール・レイノルズ氏らの反戦ヨット、フェニックスが広島港に戻る。レイノルズ氏「北爆は北ベトナムの人々の心を強める効果しかない。ベトナムは平和愛好者だ。それを傷つけ侵害しているのは米だ」
1967/6/7
仏の核実験再開に対し、日本原水協がドゴール大統領に抗議電報。原水禁国民会議も抗議文を在日仏大使館を通じ大統領に送る
1967/6/9
国連による「核兵器の影響報告」の委嘱を受けた向坊隆東大学長が広島市入り。ABCC、原医研、広島原爆病院で原爆の破壊力や放射線被害について調査
1967/6/9
建設省が長崎市に適用されている国際文化都市建設法の存続を決定(「長崎年表」)
1967/6/10
原爆被災白書広島推進委員会(世話人、今堀誠二広島大教授)が米保管の原爆記録フィルム返還を政府に要望する方針を決める
1967/6/11
日本原水協の第13回原水禁世界大会(東京)に参加する国民平和行進の広島行進団が広島市の平和記念公園を出発
1967/6/12
北ベトナムへ反戦航海したアール・レイノルズ氏が中国新聞に手記を寄せる。3回連載
1967/6/12
山田広島市長が原水禁広島市協議会の会長就任に難色。「全市民的な組織ではないので、被爆地の市長として慎重に考えたい」
1967/6/12
世界平和アピール7人委員会の茅誠司前東大学長、川端康成氏、上代たの前日本女子大学長と内山尚三事務局長(法大教授)の4人が、佐藤首相に学者、文化人18人の署名した原爆被爆者援護法制定に関する要望書を手渡し、「今国会で審議会を発足させ早期制定を」と要請
1967/6/12
広島県被団協の森滝市郎理事長ら被爆者代表が山田広島市長に被爆者援護法制定に向け協力を要望
1967/6/13
坊秀男厚相が参院内閣委員会で「米が押収した原爆記録フィルム返還について検討中」と答弁
1967/6/13
日本被団協の被爆者援護法制定要求第2波統一行動のため、森滝市郎理事長が上京。記者会見で「援護法をつくるという政府の意思表示を取り付けたい」
1967/6/14
島田豊防衛局長が自民党安全保障調査会で「中国の核兵器が実用化され、他国に脅威を与えるのは1970年代以降。わが国は日米安全保障条約に頼っており、中国の核攻撃や放射能被害の防止対策は不十分」と述べる
1967/6/14
日本被団協が東京で被爆者援護法制定要求の統一行動始める。3月に続く第2波。数寄屋橋公園で20人の代表が座り込み。15日には新宿、渋谷など9カ所の繁華街で署名活動
1967/6/14
剱木亨弘文相が衆院文教委員会で「押収された原爆記録フィルムについて外務省を通じ米と返還交渉に入る」と答弁
1967/6/15
広島県の瀬良文夫民生労働部長が県議会厚生委員会で「被爆者援護法の制定をめざし、県として本年度中に国会、政府に要望したい」と答弁
1967/6/16
広島市も独自の被爆者援護対策を実施へ。山田市長が表明。8月までに具体案。「被爆地の市としてやるべきことをやり、その上で国に働きかける」
1967/6/16
欧州原子力共同体(ユーラトム)委員会が年次報告の中で核拡散防止条約に反対する態度を初めて公式に表明。「同条約の管理査察制度を通じて共同体内部に差別、分裂が持ち込まれてはならない」
1967/6/17
原水爆被災白書をすすめる長崎市民の会が、米に保管中の「原爆の影響-広島・長崎」の返還と公開を日本政府へ要請する街頭署名運動を開始(「長崎年表」)
1967/6/17
中国の水爆実験について山田広島市長「広島市民の願いがまたも踏みにじられ、激しい憤りを感じる。核実験という現実がアジアの一部で、しかも隣国で繰り返され全く嘆かわしい」。今堀誠二広島大教授「中国内部では反米、反ソ感情に裏付けされた民族独立の象徴として賛成している。世界的視野からすれば、第三次世界大戦を誘発する効果しかなく、一刻も早く全廃せねばならない」
1967/6/17
周恩来首相「中国は最終的に核兵器を消滅させるために核実験を行っている。中国核実験成功の最も重要な意義は米ソの核独占を打ち破ったことにある。中国はいつ、いかなる場合にも核兵器の第1使用国にはならない」。北京で開かれているアジア・アフリカ・ジャーナリスト協会書記局総会で表明
1967/6/17
中国が西部地区上空で初の水爆実験。米政府原子力委員会は「規模は数メガトン」と発表。北京放送「プロレタリア文化大革命のまた一つの輝かしい成果に歓呼を送る」。1964年10月16日の初の原爆実験以来、6度目の核実験。水爆は2年8カ月というスピード開発
1967/6/17
原水禁国民会議が被爆22周年原水禁世界大会実行委員会の常任委員会開く。世界大会の基調案に「原水禁運動の国民的統一のためにあらゆる階層や団体の有機的連帯をはかる」と統一機運を盛り上げる方向を打ち出す
1967/6/18
内閣放射能対策本部(本部長、二階堂進科学技術庁長官)が中国水爆実験による放射性降下物の監視強化を決める
1967/6/18
中国の軍機関紙・解放軍報が「中国の水爆実験は各方面の熱心な人々の熱意により予定より1カ月早く実施された」と伝える
1967/6/18
世界平和アピール7人委員会が中国水爆実験に遺憾の意を表明し、全核保有国の軍縮会議開催を訴える声明を発表
1967/6/18
広島「折鶴の会」(河本一郎代表、70人)が中国政府に水爆実験の抗議文送付を決める
1967/6/18
外務省が「世界の世論に逆行して、中国があえてかかる暴挙にでたことはまことに遺憾。改めて中国政府の猛省を促したい」との非公式見解を発表
1967/6/18
長崎県内の被爆者団体「被爆者手帳友の会」(深堀勝一会長)が結成式。長崎市の県児童青少年センターで約80人が参加
1967/6/18
中国の水爆実験に対し、諸谷義武市長と住田政之助市議会議長が連名で、周恩来首相に抗議電報を送る(「長崎年表」)
1967/6/19
北京放送が初の水爆実験を取材した解放軍報記者のルポを伝える。「世界をゆさぶる時がきた。たちまちせん光が高く上がり、青空に一つのすさまじい炎のような大火球が現れ、天地をつんざくような大きな音が聞こえると、火の球は消え失せて一つのキノコ型の雲が上昇した。中国がみずから製造した最初の水爆実験は成功した。にわかに全実験場は沸き返った。人々はたぐいなく興奮した気持ちで歌いかつ踊った。雲間に響く喜びのスローガン、毛語録を朗読する声、革命の歌曲は大きな勝利の勝ちどきとなった」
1967/6/19
原水禁国民会議、核禁会議が中国核実験にたいする抗議声明発表。全日本原爆被爆者協議会は毛沢東、周恩来首相あてに抗議電報打つ
1967/6/20
米政府原子力委員会が「中国の水爆実験は名古屋大の鎌田哲夫助教授が推定した高度よりはるかに低い高度で行われた」と発表
1967/6/20
広島女学院大が原爆特別講座「8月6日の意味するもの」始める
1967/6/20
米原子力潜水艦バーブが横須賀へ入港。基地周辺でデモの学生3人を逮捕
1967/6/21
原爆医療法や原水爆被害白書(日本原水協編)作成に尽力した石井金一郎広島大教授が急性心不全で死去。45歳
1967/6/21
内閣放射能対策本部(本部長、二階堂進科学技術庁長官)が野菜や牛乳、天水の放射能許容基準を決める。放射性ヨウ素131が一定基準以上になった地域では、ろ過器使用や牛乳の飲用禁止
1967/6/21
島根県衛生研究所が21日午後、松江市内に降った小雨から平常値の200~300倍の放射能を検出。中国水爆実験の影響とみられる
1967/6/22
米政府当局が「中国の水爆はTNT火薬数百万トン相当で、飛行機から投下」と結論
1967/6/23
原爆ドーム保存工事の接着剤「エポキシ樹脂」が見積量を上回るため、広島市が工事費1,100万円を追加
1967/6/23
内閣放射能対策本部が23日測定した放射性降下物測定結果を発表。「全国的にほとんど影響がなし」
1967/6/24
原医研疫学研究室(志水清教授)が爆心地周辺の被害調査に着手。旧中島本町、材木町の生き残り住民らから聞き取り
1967/6/26
広島大理学部放射能研究室(高中順一助教授)が24~25日に広島地方に降った雨から平常値の15倍の放射能を検出。中国水爆実験の影響と推定
1967/6/27
仏が南太平洋ムルロア環礁の核実験場で小規模の核爆発実験。水爆の起爆装置にかんする一連の実験で6月5日に続き2回目
1967/6/27
原爆医療法一部改正案の審議が参院社会労働委員会でも始まる
1967/6/27
山田広島市長が佐藤首相に原爆死没者慰霊式・平和記念式への出席を要請
1967/6/27
原爆被災白書推進委員会(茅誠司委員長)が被災白書審議会設置など政府への要望決める。(1)1970年国勢調査に合わせた原爆被災調査の実施(2)米保管の原爆記録フィルム早期返還(3)白書作成の審議会設置-の3項目
1967/6/28
広島県東城町の原爆被害者の会(松尾林太郎会長)が被爆者援護法制定を求める署名活動を県内の被爆者団体に呼びかけることを決める
1967/6/29
米当局者が「中国の水爆実験から2週間経過した現在も放射性降下物を探知していない」と発表。(1)中国の水爆が非常に「きれいなもの」(2)核爆発が高度12,000メートルの成層圏にとどまっている-のいずれかと推定
1967/6/29
米政府原子力委員会が「29日のネバダ実験場で地下核実験のさい、放射能の一部が地表に漏れたが、人体への影響はない」と発表
1967/6/30
米軍病理学研究所に保管してあった被爆者病理標本の第1便がABCCへ返送される。1947年から約10年間にABCCから送られた約1,000人の解剖標本や外科手術による切除片など。原医研標本センターに譲渡へ
1967/6/30
日本学術会議が原子力特別委員会問題部会(部会長、坂田昌一名大理学部長)を広島市で開き、被爆資料センター設置の政府要望を決める
1967/6/--
琉球政府が沖縄の住民140人に被爆者健康手帳交付。被爆者健康診断の結果、210人が受診し52人が病状を訴えていることが判明
1967/6/--
「温泉治療は原爆症に効果」。大分市の山田トミ医師が6年間の研究成果まとめる
1967/6/--
被爆直後の広島、長崎の惨状を撮影し、米に押収された日本映画社の記録フィルムの一部(複写)が広島市の原爆資料館に収蔵されていることが判明。1960年に広島ライオンズクラブが同社から入手し寄贈。〈注=後に米から返還されたフィルムと同一〉
1967/6/--
広島県が5,000人の被爆者相談員を養成へ。民生委員ら対象
1967/6/--
元参院議員の山下義信氏が、広島戦災児育成所で原爆孤児の母親代わりとなって献身した女子大生菊池み津子さん(1949年死亡)の日記を出版
1967/6/--
広島市が原爆ドーム募金に寄せられた手紙や作文を文集「ドームは呼びかける」にまとめ出版へ。8月5日の補強工事完工式に募金協力者に配布
1967/6/--
建設省が広島平和記念都市建設法など特別都市建設法を今国会では廃止しない方針を決める。山田広島市長「広島、長崎の特別都市法を他の観光都市法と同様に扱われては困る。永久に残すよう政府に働きかけたい」
1967/6/--
名古屋大空電研究所の鎌田哲夫助教授が異常空電の観測データから中国の核実験は高度30,000~50,000メートルの成層圏と推定
1967/6/--
広島県原水協(共産党系)が第13回原水禁世界大会の期間中(8月5~7日)、県外被爆者の集団検診を計画
1967/6/--
広島市議会が被爆者の援護対策を推進する専門部会を設置へ

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