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ヒストリー

ヒロシマの記録1967 7月


1967/7/1
日本学術会議原子力特別委員会問題部会と広島の科学者との懇談会で、ABCCの在り方が議論に。資料の積極的公開求める声に対し、槙弘ABCC準所長は「個人の秘密もあり、全面公開は難しい」
1967/7/1
長崎市議会が米保管の原爆記録映画返還を求める意見書を議決、政府に提出へ
1967/7/2
仏政府が「南太平洋のムルロア環礁で2日、小規模核装置の爆発を行った」と発表。1968年の水爆実験の準備のため、6月から行われてきた一連の実験の3回目
1967/7/3
大阪市大の大藪寿一助教授らが広島市の原爆スラムの実態調査始める。調査内容は(1)世帯構成や職業と収入(2)生活保護や各種年金の加入状況(3)被爆のいきさつ(4)結婚や就職差別(5)原水禁運動についての考え-など100項目
1967/7/3
広島県婦協(吉原ノブヨ会長、23万人)が原爆小頭症児を中心とした重症心身障害児のための施設建設や原爆孤老の救済資金にあてる募金実施を決める
1967/7/3
原爆小頭症の子供を持つ親で組織する「きのこ会」(畠中国三会長、17人)が広島県婦人会館で発足2周年記念総会
1967/7/4
坊秀男厚相が参院社会労働委員会で被爆者援護法について「他の戦争犠牲者と比べて特殊性があるので前向きに措置したい」と答弁
1967/7/5
原対協が原爆被爆者福祉センターで被爆者の生活相談始める
1967/7/7
日本原水協が第13回原水禁世界大会の日程など最終決定。中ソの参加は見込めず、海外代表は20カ国30人程度と予測
1967/7/9
東京・立川市で開かれた砂川基地拡張反対集会に東京原水協と東京原水禁が参加
1967/7/10
大阪市大原爆スラム調査団(代表、大藪寿一助教授)が中間調査結果まとめる。「京阪神地区のスラムに比べ貧富の差が激しく、あきらめや孤独感が強い」
1967/7/10
ソウル市に韓国原爆被害者援護協会(襄度煥代表理事、800人)が誕生。活動目標は(1)原爆被害者の実態調査(2)被爆者を検診、治療する病院建設(3)被爆者の生活を援助するため就職の世話や授産所設置-など
1967/7/11
日本原水協が法務省入国管理局に第13回原水禁世界大会に参加する北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線の代表4人の入国を申請
1967/7/12
原水禁国民会議が被爆22周年原水禁世界大会の大会基調や日程などを最終決定。ベトナム反戦色を強く押し出す
1967/7/12
ブルガリア国立ソフィア少年少女合唱団が広島原爆病院を訪問
1967/7/13
坊秀男厚相が衆院予算委員会で被爆者援護について答弁。「広い意味の社会保障、特殊な社会保障という考えで処理していく」
1967/7/14
広島テレビが芸術祭参加番組として制作するセミ・ドキュメンタリー「百日紅の花」の撮影始まる。松山善三監督、杉村春子さん主演
1967/7/15
動員学徒慰霊塔が広島市の原爆ドーム南側に完成。広島県動員学徒犠牲者の会(石橋礒一会長)が呼びかけ、原爆や空襲で犠牲になった全国約1万人を慰霊
1967/7/16
広島ミュージシャンクラブ(井上敬三会長)が広島市で被爆者救援のチャリティーコンサート開く
1967/7/17
衆院内閣委員会が「原爆被爆者等の援護措置については緊急性から特段の配慮をする」などの付帯決議をつけ「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律案」を可決
1967/7/17
作家の小田実氏や開高健氏らが中心の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が北ベトナムへ医薬品を積んだ「平和の船」を送る計画を発表。アール・レイノルズ氏も8月に2回目の北ベトナム支援船を送ると発表
1967/7/17
長崎原爆被災者協議会の倉庫から、長崎原爆の写真ネガ200枚が発見され、長崎市に寄贈。写真は原爆投下直後、広島・長崎新型爆弾学術調査団の一員として長崎市を訪れた長岡省吾元広島文理科大地質学教室嘱託が惨状をカメラに収めたもの(「長崎年表」)
1967/7/17
パリで始まった第18回世界獣医会議に広島市飼犬管理事務所の今田忠信所長が出席、「馬の原爆症」の研究を発表
1967/7/17
日本原水協がABCCのダーリング所長に「ABCCの資料が核戦争準備に悪用された疑いがあり強く抗議する。いっさいの標本、資料、研究結果を日本に返還し撤退すべきだ」との抗議文を手渡す
1967/7/18
日本原水協が法務省入国管理局に第13回原水禁世界大会に参加する北朝鮮代表5人の入国を申請。法務省は「未承認国」を理由に拒否する方針
1967/7/19
山口県被爆者福祉会館(被爆者センター)建設委員会(委員長、市川禎治山口大学長)が募金を呼び掛ける声明文。募金が伸び悩み、完成が2カ月遅れる
1967/7/20
丸木位里、俊夫妻の画集「原爆の図」(田園書房)の第1刷発刊(「奥付」)
1967/7/20
山田広島市長が原水禁広島市協議会理事会で会長就任を断る。会長問題は当面たな上げ
1967/7/21
社会党が国会に提案していた原爆医療法と戦傷病者戦没者遺家族等援護法の改正案が継続審議に
1967/7/21
広島市議会が全員協議会で、実質審議を1回もせず「開店休業」状態になっている広島原爆被害者援護強化対策協議会の改組を決める。被爆者の生活援護部会と原爆スラム解消を推進する住宅部会に分ける。22日、任都栗司会長と両部会の構成メンバー21人決める。25日、初会合
1967/7/23
中国新聞社が公開シンポジウム「ヒロシマを考える-原水禁運動をみんなの手に」開催。広島市平和記念館に300人。今堀誠二、日高六郎、大江健三郎、安部一成の4氏が、政党の意向や動員力が表面に出がちな運動の姿を憂え、具体的な行動で市民に根をおろすべきと提言。中国新聞はパネリスト各氏と共同討議を重ね、企画「ヒロシマは発言する」を連載
1967/7/25
永野厳雄広島県知事が「8月6日午前8時15分に県民こぞって1分間の黙とうをささげるように」と各市町村に呼び掛け
1967/7/26
中国新聞が連載企画「原爆スラム」で、3割以上が被爆世帯という原爆スラムが抱える問題をルポ
1967/7/26
長崎県と長崎市が生活苦の原爆被爆者や重症患者に見舞金を支給する生活援護対策の実施を決める
1967/7/26
広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が生活援護部会を開き(1)健康管理の徹底強化(2)医療の拡充(3)施設の整備充実-を骨子とする被爆者援護特別計画を政府の1968年度予算で実現するよう働きかけへ
1967/7/27
広島市基町の原爆スラムで大火。171世帯、532人が被災。死者1人
1967/7/28
原水禁国民会議の平和行進東部コースの18人が広島県入り。18日大阪をスタート
1967/7/28
核禁会議主催の第2回アジア核禁会議が始まる。東京プリンスホテルで国際会議。韓国、フィリピン、インドなど8カ国の代表10人と日本代表約200人が参加。大会基調「核拡散防止は世界の世論だが、米ソ等の動きには原子力平和利用の権利も独占しようとの意図が見える。この問題へのアジアの自主性を確立せねばならない」。中国の核武装を非難する意見が相次ぐ
1967/7/28
米フィラデルフィア市のクエーカー教徒3人が、アール・レイノルズ氏のヨットのフェニックスで再び北ベトナムに医薬品と医師を送るため旅券申請
1967/7/29
住友銀行広島支店(広島市紙屋町1丁目)の「死の人影」を永久保存へ。特殊強化ガラスで覆う
1967/7/29
核禁会議主催の第2回アジア核禁会議国際会議が閉幕。(1)中、仏の核実験反対(2)核拡散防止条約の条件つき支持(3)ベトナム戦争に関する平和交渉開催の要求-などを盛り込んだ共同宣言採択。日本青年館で500人が参加し核禁中央大会
1967/7/29
原民喜詩碑が広島市の原爆ドーム東に移転、修復される。同詩碑は1951年に広島城内に建設されたが、投石で傷つき、佐藤春夫氏による「詩碑の記」の銅板も盗まれたままになっていた
1967/7/30
北ベトナムのハノイ放送が「ホー・チ・ミン大統領が第13回原水禁世界大会(日本原水協)に抗米救国闘争支持に感謝するメッセージを送った」と伝える
1967/7/31
日本原水協の第13回原水禁世界大会始まる。東京・東京文化会館で8月2日まで国際予備会議。米、キューバなど9カ国2国際団体の代表19人と日本代表150人が参加。大会基調「『ベトナムに広島、長崎を繰り返させるな』の決意のもとに、核戦争阻止、核兵器完全禁止、当面使用禁止協定の締結をめざす」。各国代表の演説は「米帝国主義」非難一色
1967/7/31
ソ連平和擁護委員会が「社会党・総評系の原水禁世界大会に代表を送らないことを決め、日本側に電報で伝えた」と発表
1967/7/31
広島県が広島市基町の原爆スラム火災跡に有刺鉄線でバリケード設置。被災者ともみあい負傷者出る
1967/7/31
山田広島市長がノルウェーのオスロで開かれた世界連邦建設同盟総会で演説。「世界法に基づく世界政府の樹立は論議の余地はない必至の問題。ヒロシマの被爆者の苦しみを通して、法による真の平和確立を強く訴え、その実現のため共に尽くしたい」(「世界連邦運動・ヒロシマ二十五年史」)
1967/7/--
核禁広島県民会議が8月のアジア核禁会議広島大会の要項を決める。政治的に偏った印象を除外するため政界代表のあいさつを断る方針
1967/7/--
米政府が北ベトナムへ反戦航海した平和活動家アール・レイノルズ氏の旅券を取り消す。レイノルズ氏は異議申し立てを準備
1967/7/--
広島市が被爆者援護を強化する「被爆者福祉法」の制定を柱とする国への要望を3年ぶりにまとめる。他に原爆スラム解消のための特別措置法の制定、原爆資料センターの建設など
1967/7/--
原爆被災児の文集「わたしがちいさかったときに」(童心社)出版。「原爆の子」「原子雲の下より」の中から原爆の悲惨さや平和の祈りをうたった子供たちの作文や詩歌を集め、岩崎ちひろさんの絵で構成

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