×

ヒストリー

ヒロシマの記録1967 8月


1967/8/1
沖縄原爆被害者連盟の金城秀一理事長ら3人が厚生省に専門医の常駐など医療援護の強化を要望
1967/8/1
核禁会議の第2回アジア核禁会議広島大会開く。広島市公会堂に10人の海外代表を含む約1,000人が参加。被爆者救援の実行などの大会宣言採択。午後8時15分から平和記念公園で「第3回平和の灯まつり」
1967/8/1
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会始まる。東京・九段会館で3日まで国際会議。海外代表はソ連が代表団を送らず11カ国4国際団体の外国代表25人で、前年の60人をはるかに下回る。開会間際にイスラエル代表の招待を中東戦争に絡み取り消す。大会基調「いかなる国の核兵器にも反対するとの立場を堅持し(1)ベトナム侵略戦争抗議(2)日本の核武装阻止(3)核兵器完全禁止の運動(4)被爆者援護法制定運動-の諸課題を追求」
1967/8/1
核禁会議が「平和運動の進め方」など3テーマでシンポジウム。浜井信三前広島市長は「ある国の核実験は反対で他の国は賛成とか『平和の敵』を設定するのは平和運動ではない。国民の総意を結集して、まず政府を動かし、国際世論に影響を与える運動を再生すべきだ」
1967/8/2
米上下両院合同原子力委員会が中国の核開発に関する秘密聴聞会の報告書を発表。「中国は1970年ごろまでに大陸間弾道ミサイル(ICBM)用のメガトン級の水爆弾頭を開発できる。ICBMは72年、早ければ70年ごろまでに配備できるかもしれない」
1967/8/2
広島原爆病院が半年間(1~6月)の診察状況を発表。死者40人(7月も含む)。うち白血病4人、胃がん5人、悪性リンパ腺腫3人、肝臓がん2人など
1967/8/2
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会が、招待を直前に取り消されたイスラエル代表の出席問題をめぐって紛糾。英代表2人が会議をボイコット。森滝市郎日本代表団らが説得、大会宣言に中東問題を織り込まないよう努力する-などを条件に一応大会にとどまる
1967/8/2
第2回アジア核禁会議広島大会に参加した海外代表が被爆者と懇談
1967/8/3
被爆22周年原水禁世界大会が「あらゆる国の核製造・実験に反対し、ジュネーブ協定の完全実施によるベトナム問題の平和解決を実現する」との共同宣言を採択
1967/8/3
オスロで開催された世界連邦世界大会で山田広島市長が世界連邦副会長に選出。会長はノーマン・カズンズ氏留任
1967/8/3
仏のメスメル国防相が「来年実験を予定している最初の水爆の規模は500キロトンになる」と発表
1967/8/3
核禁会議主催の第2回アジア核禁長崎国際大会開く。松下正寿議長が長崎市の記者会見で「原爆の恐ろしさがひと目でわかる資料、原子力の平和利用方法の資料を積み込み、世界各国を巡回する平和巡礼船の建造を検討する」と語る
1967/8/3
第2回原水爆禁止科学者会議が東京・学士会館で始まる。125人が参加(1)核兵器完全禁止への道と科学者の立場(2)核戦争準備の進行と日本(3)被爆者問題-の3テーマで討議。江口朴郎東大教授、佐久間澄広島大教授らが呼び掛け、日本原水協が協力
1967/8/4
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会広島大会が広島県立体育館などで始まる。海外代表14人を含む約7,000人が参加
1967/8/4
佐々木更三社会党委員長が広島原爆病院を訪問。「援護法制定に努力している」と患者を励ます
1967/8/4
広島原爆被害者援護強化対策協議会(任都栗司会長)が政府に要求する被爆者援護対策案をまとめる。原爆医療法を吸収した「原子爆弾被害者特別措置法」による援護が骨子
1967/8/4
広島市の広島YMCAで「第2回広島・世界を結ぶつどい」。広島YMCAとワールド・フレンドシップ・センターの主催。「原爆の体験とベトナム戦争」「非暴力平和運動について」などをテーマに、日、米、英、西ドイツ、カナダの若者ら170人が討論
1967/8/4
蜷川虎三京都府知事が記者会見で「府内に住む原爆被災者の診療負担を軽くするため、通院交通費など全額府がまかなう」と語る
1967/8/4
原水禁国民会議の平和行進(3コース、5,000人)が広島市の平和記念公園に到着。右翼団体がいやがらせ。1人逮捕
1967/8/4
第13回世界連邦世界大会が、各国政府に日本の憲法にならい戦争を放棄するよう要求する決議を採択
1967/8/4
広島市が原爆ドーム保存募金の際に寄せられた文集や手紙をまとめた「ドームは呼びかける」を出版。また、広島「折鶴の会」が、原爆ドームの保存を訴えながら1960年に亡くなった楮山ヒロ子さんの日記を中心に同会の歴史をつづった「爆心地」を発刊
1967/8/4
山田広島市長が「米から返還される原爆記録映画を原爆資料館で常時公開できるよう文部省に働きかけたい」と表明
1967/8/4
日本原水協が呼びかけた広島県外の被爆者検診が広島原爆病院などで始まる。6日まで
1967/8/4
日本原水協の第13回原水禁世界大会本会議が東京・小石川運動場などで始まる。11カ国25人の外国代表を含む1万2,000人が参加
1967/8/4
第2回原水爆禁止科学者会議が終わる。(1)核兵器禁止(2)原子力研究開発における自主、民主、公開の3原則の実現(3)米のベトナム政策に加担する日本政府の犯罪行為の糾弾(4)被爆者援護法の実現(5)平和運動の統一-の5項目を盛り込んだ声明発表
1967/8/4
英BBC放送が広島県芦品郡協和村に住む被爆者下江武介氏の英における語り部活動を描いた「ヒロシマからの来訪者」を放送
1967/8/5
原爆ドームの保存工事が完成。浜井前広島市長ら500人が出席して完工式。募金総額は6,680万円に。接着剤18トン使用
1967/8/5
日本原水協の第13回原水禁世界大会広島大会開く。広島県立体育館に5,000人。被爆者救援強化とABCCの国外撤退を決議
1967/8/5
日本原水協が広島市内の東西2カ所から平和記念公園まで平和行進。2,000人参加
1967/8/5
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が品川の東海寺に原爆犠牲者慰霊碑を建立。鳥取県原爆被害者協議会の原爆慰霊碑も鳥取市内の円護寺公園に完成
1967/8/5
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会広島大会の分散会で、被爆者援護法の実現をめざし、10、11月を被爆者援護月間として地方議会で同法制定の決議をするよう働きかけることを決める
1967/8/5
長崎市が、原爆資料の収集保存と資料展示を充実するため、長崎国際文化会館内に原爆資料協議会(杉本亀吉会長ら会員16人)を設置(「長崎年表」)
1967/8/5
日本工芸会副理事長の香取正彦氏が広島市に「平和の鐘」を贈る
1967/8/5
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会広島大会の参加者72人が献血。開会総会(4日)での森滝市郎代表委員の「被爆者は輸血用の血液不足で困っている」との訴えがきっかけ
1967/8/6
山田広島市長が平和宣言。「世界の平和は、大国間の武力と恐怖の均衡の上に辛うじて保たれ、まさに累卵(るいらん)の危機に等しい。核兵器を中心とする強大な武力の対立は、一触即発、人類をついに自滅戦争に導くおそれなしとしない。この不安と危機から逃れる道は、もはや、ほかにはない。人類連帯の精神に立ち、寛容と信頼、互譲と規律による新しい世界法秩序を打ち立てることである。国際間の真の友情と高まいな世界法の支配下にあって、戦場に代わる相互理解の場を用意し、あらゆる国家、あらゆる民族のために協同互助、共存共栄を保障する世界秩序を確立し、戦争の悲劇をこの地上から永遠に葬り去らなければならない。これこそ、人類の英知に導かれた永久平和の創造であり、新世紀の誕生である。目から去るものは心からも去る。22年前、一瞬にして20数万の生命を奪い、今なお多くの被爆者が生命の不安におののきつつある広島の悲劇を忘れることなく、これを世界の体験として受け止め、全人類が戦争の完全放棄と核兵器の絶対禁止を目ざし、全知能を傾注することを強く訴えるものである」
1967/8/6
被爆22周年。広島市が原爆死没者慰霊式・平和記念式。原爆慰霊碑前に市民ら3万5,000人
1967/8/6
日本原水協の第13回原水禁世界大会広島大会が被爆者と懇談会。米の原爆投下責任を追及する声が相次ぐ
1967/8/6
日本献血学生連盟のキャラバン隊が広島市内で「被爆者に愛の献血を」と呼び掛け。101人が申し込む
1967/8/6
ギリシャの詩人パナジオトロプスさんの詩にガエタノ・ズフレさんが曲をつけたカンタータ「ヒロシマ」がNHK・FM放送で初演奏
1967/8/6
被爆22周年原水禁世界大会広島大会(原水禁国民会議)が閉会。被爆者援護法制定促進を決議。広島県被団協に救援金425万円を贈る。学者・文化人・宗教者特別階層別会議で原水爆被災白書運動への協力を決議。白書の提唱者である金井利博中国新聞論説委員が「決議に終わらず、平和運動諸団体の統一行動として政府に働きかけを」
1967/8/6
東京の第13回原水禁世界大会本会議(日本原水協)が閉会。「米帝国主義が核兵器を脅迫の道具にして、戦争と侵略を推し進めていることを事実によって明らかにし、核兵器完全禁止を妨げている世界人民共通の敵であることを一致して確認した。核兵器完全禁止、当面の使用禁止協定の締結をかちとるため戦う」
1967/8/7
長崎の被爆者団体「被爆者手帳友の会」(深堀勝一会長、1,000人)が長崎市の平和公園で原水禁運動の統一を訴え座り込む
1967/8/7
総評が被爆者援護に本格的に取り組み、総合的な援助立法の促進決める
1967/8/8
総評が被爆者援護法の制定に向けて社会党と調整。次国会の成立をめざし、院内、院外、中央、地方が一体となった活動を展開する方針固める
1967/8/8
原子力委員会(委員長、二階堂進科学技術庁長官)が1966年度原子力白書をまとめる。原子力発電、放射線利用などが実用化の段階に達したと強調
1967/8/8
日本原水協の「国民平和行進」が長崎入り。7月2日に宮崎県都城市を出発した組と7月10日に鹿児島市を出発した組が合流
1967/8/8
ベトナム反戦を訴え米国内で「平和トーチマラソン」をする米フィラデルフィア市のリチャード・エルモアさんが広島市の平和記念公園の平和の灯から採火
1967/8/9
諸谷義武長崎市長が平和宣言。「恐怖と惨禍にさいなまれた市民は、めぐりくる年ごとに平和を願って心からの祈りを在天のみたまにささげてきた。しかし、東西間の不和は果てしなく、民族間の流血の争いは繰り返され、核保有国は核実験、核製造を強行、われわれの悲願である人類の福祉、平和の確立を著しく妨げている。われわれはあの悲惨な体験と今日も続く業苦からいかなる戦争も否定、核兵器の製造保有、実験に強い怒りをおぼえる。われわれは世界人類の英智を信じ、くじけず、たゆまず、恒久平和の実現に向かって最善の努力することを誓う」
1967/8/9
長崎被爆22周年。長崎市が原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。浦上の平和公園に市民5,000人
1967/8/9
日本原水協の第13回原水禁世界大会長崎大会開会。長崎市営大橋球場にアルジェリア、キューバなど9カ国の海外代表18人を含む1万人が参加。「ナガサキの名は限りない悲しみの記録であるとともに、野蛮な行為を再びベトナムで、世界のどの地域でも繰り返させないという固い決意のシンボルでもある」との「長崎の決意」を発表
1967/8/9
杉本篤長崎原水協会長ら各県原水協の代表約100人が長崎市のABCCを訪れ、施設の撤去と全資料の公開を要求
1967/8/9
総評の岩井章事務局長が被爆者援護のため木村俊夫官房長官に原爆被爆者援護法制定や特別審議会の設置を盛り込んだ要望書。木村長官は(1)被爆者援護強化は特別立法より現行の原爆医療法の拡充で対処(2)医療手当支給額の最高3,400円から6,000円に増額-などの見解示す
1967/8/9
学生グループ「亜細亜友の会」の中国、イラン、パキスタンなど9カ国の留学生ら34人が山田広島市長を訪れ、「被爆の訴えを永久に」と要望
1967/8/9
原水禁国民会議の被爆22周年原水禁世界大会長崎大会総会開く。長崎市の国際体育館にユーゴ、英など5カ国13人の海外代表を含む8,000人が参加
1967/8/9
原爆で両親を失った少年少女の集い「長崎平和折り鶴会」(浦川美代子会長、30人)が長崎市の平和公園に7年前から建設を進めてきた「平和を祈る子の像」が完成、除幕式
1967/8/11
フォスター・ジュネーブ軍縮会議米代表が「ソ連が第3条(査察条項)を除いた核拡散防止条約米ソ共同草案の提出に同意した」と発表
1967/8/13
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が東京・品川の東海寺に建立した原爆犠牲者慰霊碑の除幕式・慰霊祭。日本被団協代表ら300人参列。171人の原爆犠牲者の名簿を納骨堂に納める
1967/8/13
第13回原水爆禁止四国大会(原水爆禁止四国ブロック協議会主催)が四国電力の原子力発電所設置に反対する決議採択
1967/8/14
日本被団協が東京で第11回総会を開き、「被爆者援護法を実現させる被爆者行脚」の展開決める。政府の被爆者実態調査の発表を控え、世論を盛り上げる狙い
1967/8/16
木村俊夫官房長官が日本被団協の被爆者援護法制定を求める陳情に対し、医療手当の引き上げのほか、葬祭料の新設や認定患者の枠拡大など原爆医療法の拡充強化とともに、同医療法を援護法の性格へ移行させる用意があることを示唆。援護法を研究する協議会設置も検討へ
1967/8/17
広島、長崎両県市が共同で政府へ要求する原爆被爆者援護対策がまとまる。原爆被爆者特別措置法案の制定を柱とする生活援護と原爆スラム解消に向けた住宅援護の2本立て。原爆被爆者特別措置法案は(1)原爆医療法で措置している健康管理、医療対策の改善、強化(2)被爆者対策審議会の設置(3)広島大、長崎大の原医研施設の充実-など
1967/8/19
原爆被害者援護強化対策協議会の任都栗司会長らが厚生省に広島、長崎両県市がまとめた「原爆被爆者特別措置法案」を説明
1967/8/24
西ドイツ政府は核拡散防止条約の米ソ提案について、基本的には草案を歓迎しながらも「査察条項のほか条約の手続き、有効期間の3点について態度を保留」との見解示す
1967/8/24
米ソ両国がジュネーブ軍縮会議に核拡散防止条約の新草案をそれぞれ提出。米ソ両案は同文で、第3条の査察、管理条項は白紙。ジョンソン米大統領が「この条約ができなければ子孫はわれわれの良心を疑う」と声明
1967/8/25
仏政府が核拡散防止条約米ソ案の拒否を決定。ドゴール大統領「この提案は米ソが超大国としての独占的立場の維持をねらったもの」
1967/8/27
広島市の「平和の灯」をトーチリレーで運ぶ米大陸横断平和行進がサンフランシスコを出発
1967/8/28
広島、長崎両県市が政府に制定を要求する「原子爆弾被爆者特別措置法」の最終案決まる。原爆医療法を吸収する形で(1)医療制度の充実強化(2)健康管理、保養、保護施設の充実(3)被爆者に対する強力な援護対策の実施(4)障害補償、その他被爆に伴う補償制度の確立(5)放射能医学研究機関の充実-など
1967/8/29
長崎県被爆者手帳友の会が長崎県、市に「爆心地から1.5キロ以内の被爆者の県、市民税減免を」と陳情
1967/8/29
自民党が原爆被爆者対策小委員会の設置決める。委員長は田中正巳議員
1967/8/30
木村俊夫官房長官が核拡散防止条約問題で記者会見。「米ソ草案にはいくつかの問題点はあるが、今条約に署名するかしないかの結論は出せない。国際世論の動向を見て決めたい」
1967/8/30
広島「折鶴の会」がナチ強制収容所があったポーランドのアウシュビッツの平和団体と姉妹縁組を計画。仲介の宗教家桑原英昭氏が現地の平和団体から同会に託された記録映画や写真帳、毛髪で作った衣類など手渡す
1967/8/30
原爆医療審議会(会長、中泉正徳東大名誉教授)が坊秀男厚相に「胎内被爆による小頭症を原爆症に認定すべき」と答申
1967/8/31
厚生省が原爆医療審議会の答申を受け原爆小頭症を「近距離早期胎内被爆症候群」として原爆医療法の認定疾病に加える
1967/8/31
原水禁国民会議の森滝市郎代表委員らが核拡散防止条約に対する方針を発表。「核保有国の核軍縮義務を明記するなど、核拡散防止条約が真に核兵器の禁止をめざした内容になるよう各国へ働きかけを強める」
1967/8/--
被爆直後に撮影され米が押収した原爆記録映画が返還へ。米空軍がコピー2組作る。オリジナルは空軍が保管し1組を日本に返却、もう1組はワシントンの国立記録保存所で保管
1967/8/--
米が外務省にウラン濃縮に関する研究の発表に制限を申し入れ。中国などへの技術流出の懸念から。科学技術庁は原子力基本法に公開の原則をうたっていることから拒否の方針
1967/8/--
日本原子力発電会社がわが国初の原子力発電所である東海原子力発電所に国際原子力機関(IAEA)の国際査察を自主的に受け入れる方針決める

年別アーカイブ