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ヒストリー

ヒロシマの記録1966 3月


1966/3/1
日本原子力研究所第3研究棟で職員1人が指先に被曝、線量不明。許容線量超えと推定
1966/3/1
原水禁国民会議が横須賀市で「3・1ビキニデー、原水爆禁止、被爆者救援、ベトナム戦争終結のための中央集会」。全国代表約800人が参加。(1)ベトナム問題の早期平和解決(2)日本の非核武装宣言の実現(3)被爆者救援-などのアピールを採択
1966/3/1
日本原水協の「3・1ビキニデー全国大会」が静岡、焼津両市で開幕。全国代表約5,000人が参加。2日まで。初日、故久保山愛吉氏の墓前祭に参列後、両市の計40会場で分散会。最終日、「原水禁運動をベトナム反戦と結合して発展させよう」との大会決議などを採択
1966/3/2
スペイン上空で衝突墜落(1月17日)した米空軍B52爆撃機の核爆弾4個のうち2個の起爆部分の一部(通常火薬)が爆発、核爆弾が分解した-と米国防総省が発表。核爆発は起きなかったが、墜落地点の周囲が放射能汚染。米国務省も「核爆弾1個が依然不明」と公式に認める。米政府原子力委員会は墜落地点の土数百トンを取り除き、船で米へ送って処理する準備を進める
1966/3/2
ランドール駐日英大使が外務省の下田武三事務次官と核拡散防止問題について意見交換。協定の早期締結が急務との英政府の意向を説明。ラ大使「仮に協定ができても仏、中国がいつ参加するか明らかでなく、むしろ非核保有国が開発に乗り出し核拡散が促進される恐れがある」
1966/3/3
日本原子力研究所(茨城県東海村)の研究室で、国立大学の研究員8人の被曝事故が判明。CP-5型研究用原子炉で放射線照射した試料を実験する際に汚染。事故発生は2月上旬~中旬。被曝許容量の三分の一だが、安全管理の徹底を勧告
1966/3/3
日本原水協が全国の被爆者約100人と「被爆者完全援護法」制定と被爆者の生活安定施策を厚生省、各党に要請。3・1ビキニデー全国大会の決定に基づく行動
1966/3/7
マクナマラ米国防長官が上下両院原子力委員会で中国の核戦力を警告する証言。「中国の侵略的意向は、国民が飢えているにもかかわらず戦略核攻撃戦力を保有しようとする決意の中に明白に示されている。中国が核兵器の潜在能力を発展させ、その運搬手段の開発に努力していることは、周辺の国に直接的な脅威となっている」
1966/3/8
米国防総省のジョン・フォスター国防開発技術本部長が上院軍事歳出委員会の合同秘密聴聞会で「米は中国からの弾道ミサイル核攻撃を想定した防衛体制を開発中」と証言
1966/3/9
社会党が中央執行委員会で、「原水禁国民会議の組織強大化を通じて原水禁運動の国民的統一を果たす」との運動方針を決定
1966/3/10
ジュネーブ軍縮委員会でスウェーデン代表が「核実験探知クラブ」構想を提案。国別探知施設や相互情報交換機関の設置を強調
1966/3/16
米戦略空軍のB52爆撃機の衝突事故で不明になっていた水爆1個が、スペインのパロマレス沖の海底で発見-と捜索当局が明かす。水中撮影写真を検討した核兵器専門家は「爆弾は損傷しておらず、海水の放射能汚染の可能性はない」と語る
1966/3/17
厚相の諮問機関の原爆医療審議会(中泉正徳会長)が原爆小頭症の問題を討議。申請のあった小頭症は原爆後遺症として認定する方向で委員の意見が一致。全国44人の小頭症児が確認され、16人が「きのこ会」を結成
1966/3/18
政府が沖縄に派遣する被爆者治療班の日程を発表。医師2人、診療エックス線技師1人、事務官1人で構成する2班が4月に2週間、沖縄本島、宮古、八重山の各地で無料診療の予定。広島原爆病院の医師3人も参加。沖縄への医師派遣は2度目
1966/3/20
スウェーデンのウプサラ大地震研究所が20日、ソ連セミパラチンスクを震源とする地下核実験を探知。米政府原子力委員会もソ連核実験を発表
1966/3/20
日本被団協が山口県小郡町で第20回代表理事会。紛糾する原水禁組織への加盟問題などを含め、正常化を討議
1966/3/23
参院予算委員会で原子力空母エンタープライズの日本寄港について政府側が答弁。松野頼三防衛庁長官「まだ通告を受けていない。基本的に原潜以来の方針と変わりなく、安保の枠内で処理する。規定に反しない限りよい」。椎名悦三郎外相「拒絶する理由はない」
1966/3/24
日本原子力研究所(茨城県東海村)の高放射線物質取扱室で、許容量を超える放射線被曝事故が判明。研究員1人がCP-5型研究用原子炉で放射線照射した試料を取り出し廃棄処分した際、右手指に放射能を浴びる。線量計測課の検査で明らかに
1966/3/25
西ドイツのエアハルト首相が連邦議会で、すべての非核保有国に対し、西ドイツの例に倣い核兵器の製造放棄を訴えた7項目の平和提案
1966/3/28
ゴールドバーグ米国連代表が記者会見で語る。「米政府は真の軍縮が進展し得るか否かを確かめるため、ジュネーブで中国代表と話し合う用意がある」
1966/3/30
厚生省の「原爆被爆者生活実態特別調査」が広島市内で始まる。被爆後、同省が初めて手掛けた「原爆被爆者実態調査」の締めくくり調査。広島、長崎両市の原対協が委託を受け、東大、慶応大、一橋大が実施。広島では抽出した被爆160世帯を15日間で聞き取りし、被爆世帯の20年間の生活史を社会学的にとらえ直す
1966/3/31
広島県銘木事業協同組合(藤居平一理事長)が原爆犠牲者や遺族への救援金として広島市に50万円を贈る。全国銘木展示大会(1965年11月)の利益金の一部
1966/3/--
「原民喜全集」の普及版(3冊)が芳賀書店から刊行
1966/3/--
江津市が誘致を進めていた有福原爆被爆者温泉療養研究所の設置が本決まり。定員70人、8月完成へ。土地買収費は同市と島根県、建設費は原対協が負担

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