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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 5月


1965/5/1
広島「折鶴の会」とソ連・ボルゴグラード市のピオネール(少年団)が姉妹縁組。1964年5月に広島を訪れたミコヤン・ソ連最高会議議長の橋渡しで実現
1965/5/1
総理府が4月に実施した沖縄在住の原爆被爆者医学検診の結果を発表。検診希望者は計184人、うち原爆医療法に定める被爆者は広島被爆62人、長崎被爆110人の計172人。治療に特別の措置を必要とするもの14人、一般的な措置を必要とするもの43人、経過観察を必要とするもの25人で計82人がなんらかの措置が必要
1965/5/4
広島、長崎の被爆者を中心とした「世界平和巡礼団」がジョンソン米大統領、マクナマラ国防長官、ラスク国務長官にベトナムからの撤退を要望
1965/5/7
オランダ・アムステルダムのサダコ・フラワーズ委員会から1963年末に贈られたグラジオラスの球根6,000個のうち2,100個が広島原爆病院、広島大付属病院、広島「折鶴の会」などに贈られる
1965/5/7
原爆慰霊碑の汚損事件への怒りの声がソ連・カムチャツカから原爆資料館に寄せられる。手紙の主は1964年、カムチャツカで「ヒロシマ写真展」を開いたE・ホバトコフさん
1965/5/9
コスイギン・ソ連首相が対ドイツ戦勝20周年でメッセージを発表。米のベトナム戦争中止を要求するとともに核兵器保有国が核兵器の使用放棄を宣言することを提案
1965/5/11
原爆被爆者医療審議会が沖縄在住の被爆者のうち13人を原爆医療法に基づく認定患者に内定。沖縄被爆者にも原爆医療法の適用が決まる
1965/5/12
被爆者訪ソ平和使節団(森滝市郎団長)が帰国。ナホトカ、イルクーツク、レニングラード、ボルゴグラードなどで平和を訴える
1965/5/13
被爆の翌日、広島市役所地下の電話交換室で救出された少女が20年ぶりに恩人と三原市内で対面。当時、三原警察署に電話技師として勤務していた三原市の小原京一さん、少女も三原市の森西雅子さん
1965/5/14
米がネバダで中規模下位の地下核実験
1965/5/14
中国が西部地区上空で2回目の核実験を行い成功。新華社通信が伝える。米国務省が第2回実験は第1回とほぼ同じ規模のTNT火薬約2万トンで、実験場はロプノルと発表。日本の松井明国連大使が開会中の軍縮委員会で中国非難の演説
1965/5/15
世界平和アピール7人委員会が京都市で会合を開き「科学的な原爆白書を国際的な立場で早急に作成する」ことを決める。平和問題研究団体談和会幹事の今堀誠二広島大教授が出席し事情を説明
1965/5/15
中国核実験に対し、原水禁国民会議が「いかなる国の原水爆にも反対する立場から、中国が再び核実験をしたことに反対の意を表明せざるをえない」と声明。広島大教養部学友会の学生100人も緊急抗議集会
1965/5/16
新潟大理学部の小山誠太郎教授が中国核実験によるとみられる強放射性粒子を検出。17日にかけ各地で検出
1965/5/16
共産党系の広島県原水協が中国核実験で声明。「米は中国が提唱した核兵器全廃のための世界首脳会談の呼びかけに応じないばかりか、その後も十数回地下核実験をし核兵器を強化した。他方、北ベトナムに侵略的な攻撃を加え、核威嚇政策を推し進めている。中国が核実験を再び行わざるをえなかった理由を直視しなければならない」
1965/5/17
世界平和巡礼団の関係者でつくっている広島・長崎平和研究会(幹事長、庄野直美広島女学院大教授)が中国核実験への抗議文を周恩来中国首相に送る。社会党系の広島県原水禁も「理由のいかんを問わず核開発には反対」と声明
1965/5/18
原対協が被爆20周年を記念して20年間の原爆医学、医療の総まとめをするため(1)10月16、17日に広島市で全国の原爆医療関係者が集まる原爆後障害研究会を開き、その結果を「広島・長崎原爆医療白書」にまとめる(2)広島独自の20年間の原爆医療を集大成した「続広島原爆医療史」を発行する-などを決める
1965/5/19
核禁会議が東京で中国核実験抗議代表者集会。自民党、民社党関係者のほか徳川夢声、平林たい子氏ら参加
1965/5/21
広島大の原爆放射能医学研究所が落成。8部門、広島大付属病院に同研究所の被爆診療科設置
1965/5/21
米がネバダでこの年12回目の地下核実験
1965/5/22
全国でただ一つ社共両派が分裂を回避していた原水禁山口協議会(安部一成理事長)が1年8カ月ぶりに開いた総会で社会党・総評系が脱退を表明。6月に原水禁山口県民会議を結成へ
1965/5/22
平和記念公園内の「平和の鐘」に落書き
1965/5/22
韓国に住む原爆被爆者の実態調査と救援を韓国政府に訴える在日韓国居留民団広島県本部の原爆被爆者母国訪問団(金寛植団長)20人が出発。同県本部の調べでは、被爆当時、徴用などで広島市にいた韓国人は約6,000人、うち1,000人が終戦時に帰国
1965/5/23
広島県佐伯郡五日市町の光禅寺参道横に原爆死没者慰霊碑が完成、除幕式と追悼法要
1965/5/24
原爆医療法改正案が参院で可決。入院14日以上の認定患者の医療手当(月額最高2,000円)が3,000円に、通院日数4日以上の患者の手当(1,000円)が1,500円に
1965/5/25
米原子力潜水艦スヌークが佐世保港に入港。原潜入港は3度目
1965/5/27
世界平和の祈りを託して世界各国をリレーされていた1本のろうそくとろうそく台が広島市に届き、広島女学院大職員の森木葉子さんが浜井広島市長に贈る。2年前、ソ連の一建築家が米の平和団体「平和のための婦人ストライキ運動」(WSP)の雑誌に掲載された森木さんの手記に感動し、ろうそくをWSPに贈ったのが始まり
1965/5/27
広島大、山口大の平和問題研究グループ「平和問題研究団体談和会」の幹事、今堀誠二広島大教授、渡辺漸広島大原医研所長が愛知揆一文相に、原爆被災白書作成で協力を要請
1965/5/29
全日本原爆被爆者協議会(任都栗司会長)、広島市原爆被爆者協議会(同)が市公会堂で「原爆被爆20周年記念全国大会」を開催。約2,000人が出席。被爆者の医療、福祉の対策強化など6項目を決議
1965/5/29
日本弁護士連合会(高橋義次会長)が定期総会で、「政府は原爆被爆者に対する適切な援護立法を講ずべきだ」の決議を満場一致で採択。広島弁護士会が作成した「原爆被害に対する補償原案」の議員立法をめざす
1965/5/--
「ヒロシマ・ノート」の作者大江健三郎氏から広島原爆病院へ見舞金30万円と原爆被災白書運動の資金20万円の計50万円の寄付申し出
1965/5/--
長崎原爆の投下直後に原子雲の中を飛行した旧海軍兵が被爆者手帳の交付などを求める手記を発表。佐世保基地から3人乗りの偵察機で長崎上空を飛ぶ。戦後、1人は死亡、手記を書いた当人は貧血に苦しむ。手記は共産党系の広島県原水協、広島県平和委員会などが被爆20周年を記念して募集

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