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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 5月


1958/5/1
米国防総省と政府原子力委員会が「太平洋で行われる米の核実験『ハード・タック』シリーズは、放射性降下物が危険指定区域内に落ちると予想される場合にだけ行う」と発表
1958/5/2
米政府原子力委員会が「近く太平洋のジョンストン島で核弾頭付きミサイル発射実験を行う」と発表
1958/5/5
広島市中島町の平和記念公園に建設中だった「原爆の子の像」が完成、除幕式。全国代表の子ども130人をはじめ地元の小、中学生、被爆者代表、原爆犠牲者の遺族、像の制作者の菊池一雄東京芸大教授ら約1万人が参加。故佐々木禎子さんの弟栄二君(幟町小3年)が除幕。湯川秀樹博士が寄贈した表に千羽づる、裏に「地に空に平和を」と浮き彫りした鐘が像の真下につり下げられ「こけしの会」会員が鐘を鳴らす。続いて黒御影石に記された碑文「これはぼくらの叫びです/これは/私たちの祈りです/世界に平和を/きずくための」を幟町中3年香川将家君が、碑銘「原爆でなくなった兄姉の霊をなぐさめ/世界に平和を呼びかけるために/広島市小・中・高校の子どもが結集し/全国の友だちの支援のもとにこれをつくる」を国泰寺中の中江千好さんがそれぞれ朗読、全員で黙とう。1955年に禎子さんの級友たちが像の建設を呼びかけてから2年半、募金には全国3,200校、海外9カ国の子どもたちが協力し利子を含め580万円が集まる
1958/5/7
米政府原子力委員会が「核実験シリーズの第1回爆発は4月28日エニウェトク実験場で行われた」と発表。同実験に立ち会い6日帰国した民主党のポーター下院議員が議会で演説し明るみに。ポーター議員は「実験は5、6月中に30回行われる。このような秘密主義は国民に対する侮辱で、ごうまんきわまる措置」と非難
1958/5/7
ホノルルの米連邦地裁で水爆実験抗議船ゴールデン・ルール乗組員4人の公判。全員法廷侮辱罪で有罪、懲役60日(執行猶予)の判決
1958/5/8
ソ連が米の核実験立ち会いのための科学者招待を拒否。「参加は事実上の核軍備拡張競争を支持することになる」
1958/5/10
フルシチョフ・ソ連首相がアイゼンハワー米大統領に核実験査察のための専門家会議開催に同意と書簡。11日のタス通信が伝える
1958/5/11
米政府原子力委員会が核実験シリーズ「堅パン」の第2回実験をビキニ環礁で行ったと発表
1958/5/11
広島市三滝山多宝塔で久保田万太郎氏の原爆句碑を除幕。「焦土かく風たちまちにかをりたち」。久保田氏、林房雄氏ら出席
1958/5/11
米英ソ3国政府を相手取り核実験反対を訴えている各国科学者の原告側弁護士A・L・ウィリン氏が広島へ。ワシントンでの公判準備のため。原告に原爆乙女の広島県佐伯郡大野町、佐古美智子さん、部落解放同盟広島県連委員長の土岡喜代一氏が参加決める
1958/5/12
英が日本政府の核実験中止要請に拒否回答。「核実験に関する英政府の政策はよく知られている。この政策に照らし日本政府の要請を受諾できない」
1958/5/12
スウェーデン・ストックホルムで開かれていた第7回世界青年学生平和友好祭に出席した後、原水爆禁止を訴えて欧州各地を訪れていた広島市曙町の村戸由子さんが広島帰着
1958/5/13
米がエニウェトク環礁で3回目の核実験▽日本政府が米政府に核実験開始を遺憾とする申し入れ。実験の即時無条件中止と原水爆の製造、貯蔵、使用の禁止を要望
1958/5/13
社会党が独自に非核武装宣言
1958/5/14
異常気圧波から核爆発探知法を開発した京大理学部気象学特別研究室の山元竜三郎博士らに気象学会賞贈呈へ
1958/5/15
スイス生まれのドイツ人で米国籍も持つジャーナリスト、ロベルト・ユンク氏の「千の太陽よりも明るく-原子科学者の運命」出版。菊盛英夫氏訳。文芸春秋新社(「奥付」)
1958/5/15
広島市の平和記念公園でのエニウェトク・クリスマス島水爆実験阻止と勤務評定撤回要求全国学生総決起広島大会に1,200人が参加
1958/5/15
日本原水協が東京・神田で常任理事会。第4回原水爆禁止世界大会を8月12日から9日間、東京に30カ国150人の外国代表を含め6,000人が集まり開催決める。「米英は実験を即時中止し無条件でソ連と実験禁止協定を結ぶべき」との5・15アピールを採択
1958/5/17
西ドイツ社会民主党から社会党に原水爆反対で共闘を推進するとの返書
1958/5/18
映画「千羽鶴」の広島ロケ終わる
1958/5/19
岸首相が核実験問題でフルシチョフ・ソ連首相に返書。「米英両国政府が原子、水素兵器の実験を実施せることはきわめて遺憾であり、万一貴国がこれがため実験禁止に関する決議を変更されることがあれば著しく期待が裏切られる」
1958/5/20
長崎原爆病院が開院
1958/5/24
アイゼンハワー米大統領が核実験査察方法を討議する専門家会議を3週間以内にジュネーブで開こうとフルシチョフ・ソ連首相に回答。米の専門家代表としてアーネスト・ローレンス・カリフォルニア大放射能研究所長ら3人を任命
1958/5/25
広島県被団協が広島市内で定期総会。原爆医療法の強化拡大と、8月6日の原水禁世界大会にインドネシアなどからの被爆留学生、原爆投下機の副操縦士ロバート・ルイス氏の招待を決める▽組織強化のため新たに常任理事3人を設置。吉川清(8・6友の会会長)、大国フサエ(全電通遺族会会長)、木村幸次郎(広瀬学区被災者の会会長)の各氏を選ぶ
1958/5/25
西ドイツ・フランクフルト、ギーセン、ダルムシュタット3市の原爆被害調査団が広島へ。グレース団長をはじめ国際政治、放射線学者、医師、牧師、ジャーナリストら13人
1958/5/26
モスクワで開かれたワルシャワ条約機構政治諮問委員会が共同宣言。(1)米英政府の核実験強行は各国人民の原水爆禁止の願いを無視している表れ(2)欧州中部の西ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアに核兵器、ミサイル基地を設置しないことを主張する-など▽フルシチョフ・ソ連首相が「米が西ドイツの核武装を推し進めるならソ連は東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアにミサイル基地を設置する」と言明。27日、タス通信が伝える
1958/5/27
広島市原対課が前年度の健康診断受診状況まとめる。健康手帳の交付は被爆生存者約9万人の83%の7万4,610人、うち健診を受けたのは2万3,343人
1958/5/28
原子力発電会社の諮問に応じて気象を調べる「原子力気象調査会」が東京で発足。最高顧問に気象庁長官の和達清夫氏
1958/5/28
米の核兵器反対非暴力行動委員会が太平洋の米核実験場へ米市民以外の乗り込んだ抗議船派遣を呼びかけ。米抗議船のゴールデン・ルールが原子力委員会の行政命令で逮捕、処罰されたため
1958/5/29
長崎の原爆乙女、永田尚子さんがソ連保健省の招きで6月中旬、治療に出発へ。被爆によるショックなどで発声が困難。ソ連大使館から受け入れの連絡
1958/5/31
山口県厚狭郡山陽町の金田春子さんが原爆医療法による治療認定が間に合わないまま原爆症で死去。1月21日、日赤山口病院で再生不良性貧血と診断され治療認定を申請していたが事務手続きが遅れる
1958/5/31
フルシチョフ・ソ連首相がアイゼンハワー米大統領に核実験査察の専門家会議開催に同意の返書。「会議の結論は3、4週間で。開催場所はモスクワが望ましい」。2日付プラウダが伝える
1958/5/--
行政管理庁がABCCに対し死亡票の研究使用を認める(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1958/5/--
日本キリスト教協議会が広島市基町のYMCA会館内に「キリスト教広島被爆者福祉センター」を開設。この年7月に被爆困窮者の実態把握のため被爆被保護世帯283ケースの調査(「広島原爆医療史」)

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