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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 4月


1955/4/1
東京・丸の内工業クラブで「原爆乙女を米で治療させる計画」の第1回打ち合わせ会。原対協から原田東岷氏、米YMCAロング主事、葛西嘉資日赤副社長、小松隆日米協会長、橋本寛敏聖路加病院長、堀内謙介前駐米大使、松本滝蔵内閣官房副長官、広島市の吉田達雄社会課長らが参加。広島から2医師が同行▽原爆乙女の渡米治療に地元は複雑。吉川清氏「それだけの金があり、本当にすまない気持ちがあるなら広島へ来て治療してもらいたい」。温品道義原爆被害者の会代表「20人以外にもひどい患者が数多くいるのだから、このヒロシマの切実な実情を説明してアメリカの良心の啓発をしてもらいたい」
1955/4/1
京都市で第14回日本医学会総会始まる。三好和夫東大病院、熊取敏之国立東京第一病院の両博士が「ビキニ放射能の臨床的、血液学的観察」と題し発表。「久保山愛吉さんの死因は単なる肝臓障害ではなく死の灰によって致死量以上の放射線を受けたため」と米に反ばく
1955/4/2
トルーマン米大統領が訪米中のアジア各国指導者と会見し、日本への原爆投下はいまでも後悔していないと言明。「私は原爆投下により大戦が終結するものと信じていた。私は原爆の使用が必要だと考えていたし、私の決断が間違いだと思ったことはない」
1955/4/5
京都市で「世界放射能医学会議」準備会開く。都築正男東大名誉教授、西岡時雄、天野恒久両阪大教授ら中心。会議は5月23日から約2週間、ビキニと広島、長崎の原爆被害が中心
1955/4/6
米がネバダ・ユッカ平原上空約10キロで航空機編隊撃墜のための原子誘導弾実験
1955/4/6
広島市がマッカーサー道路を「鯉城通り」と改名。紙屋町から広島城跡までの幅40メートル、長さ420メートル
1955/4/8
仏教各派の大同団結をはかり、平和都市広島建設をと在家の仏教家が集まり「仏教広島建設同志会」発足。広島市民病院の小川新外科部長、広島市助役の坂田修一氏など呼び掛け
1955/4/10
米のノーマン・カズンズ氏が原爆乙女渡米治療のため、ニューヨークのマウント・サイナイ病院の整形外科医アーサー・バースキー、同内科医ウィリアム・ヒッチグ両博士らと来日。11日、広島へ
1955/4/11
通産省工業技術院に原子力課誕生。政府の行政機構では初の原子力関係機関
1955/4/11
武谷三男氏編の岩波新書「死の灰」英訳完成。西脇安大阪市立医大助教授と羽根三郎大阪外語大講師の両氏が翻訳。英ビクター・ゴランツ書店から出版へ
1955/4/12
原対協が広島市民病院で原爆乙女の渡米治療希望者の選考会を兼ねた原爆障害者合同診察会。37人がバースキー博士らの診察受ける
1955/4/13
郵政省が「原爆記念切手」の発行は無理との見解示す
1955/4/15
ノーマン・カズンズ氏らが渡米治療の原爆乙女22人を発表。18日に3人追加、25人に
1955/4/16
日本学術会議原子力問題委員会が、米からの濃縮ウラン受け入れは、「原子力についての学術会議3原則(自主、公開、民主)に抵触する恐れがあるので慎重に検討を」と申し合わせ
1955/4/18
相対性原理で知られるアルバート・アインシュタイン博士が、米ニュージャージー州プリンストンで胆のう炎のため死去。76歳。1879年ドイツのライン河畔ラルムでユダヤ人の中流家庭に生まれた。1929年ノーベル物理学賞受賞、33年、ナチス・ドイツから米に亡命
1955/4/19
東京・参院議員会館で原水爆禁止世界大会の第3回準備委員会。大会には外国の平和運動家ら約100人招き、日程は広島で8月6日から4日間と決める
1955/4/20
フランスの作家ジョルジュ・デュアメル氏から広島市民にメッセージ。「元気を出してください。世界はあなた方を決して忘れてはいない」
1955/4/24
インドネシア・バンドンで開かれていたアジア・アフリカ会議(AA会議)が閉幕。「核兵器、熱核兵器の製造、実験、使用の禁止が人類と文明を全面的破壊から救うための至上命令」との最終コミュニケを発表
1955/4/25
アイゼンハワー米大統領がニューヨークで「米政府は原子力商船建造の計画がある」と表明
1955/4/25
広島の被爆者、広島市中広町の下田隆一さん、同市皆実町の多田マキさん、長崎の被爆者、東京・新宿区の浜部寿次さんが国を相手取って損害賠償請求の訴訟を東京地裁に起こす(原爆訴訟)。下田さん=30万円。多田さん、浜部さん=20万円。「政府は米国と平和条約を締結した際、戦争によって生じた一切の損害賠償請求権を放棄した。従って国は個人の受けた損害を賠償すべき」。代理人は原水爆損害求償・使用禁止同盟理事長の岡本尚一弁護士
1955/4/26
英国社会主義者医学協会の招きで英を訪問、原爆体験を語った広島市の日詰忍さんが羽田に帰る。「集会には19回出席し話をした。原爆の恐ろしさはあまり知られておらず、10年たっても原爆症で死ぬ人がいるなどということは初耳のようでした」
1955/4/27
大阪でも原爆訴訟。兵庫県宝塚市の岩淵文治さんと大阪府寝屋川市の川島登智子さん。「原爆被災によって受けた損害に対し各20万円を支払え」と国を相手どって大阪地裁に提訴。代理人は東京と同じ岡本尚一弁護士
1955/4/28
日本学術会議総会が濃縮ウランの輸入問題で激論。輸入慎重派の決議案を否決
1955/4/28
財界に原子力平和利用の機運高まる。東京・丸の内工業クラブで原子力平和利用懇談会が発足
1955/4/29
政府がビキニ被災補償7億2,000万円の配分を決める。魚価低落によるマグロ生産者の損害4億5,000万円、漁獲物廃棄による損害7,900万円など。死亡した久保山愛吉氏に対しては慰謝料550万円、第五福竜丸乗組員22人分慰謝料4,400万円
1955/4/30
22代広島市長に渡辺忠雄氏が現職の浜井信三氏の3選を阻止して当選。56歳。広島県山県郡大朝町生まれ。1928年以来弁護士。1946年に自由党から衆議院議員に当選、公職追放。その後2回衆院に立候補したが落選
1955/4/--
原爆の詩の英訳本「ザ・ソング・オブ・ヒロシマ」完成。「ぷれるうど詩話会」の米田栄作、大原三八雄氏らの詩を収める
1955/4/--
過労で倒れた作家の真杉静江氏を原爆乙女の山岡ミチコさんがつききりで看病
1955/4/--
東京、神奈川など関東の被爆者が「原爆被災者の会」を設立

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