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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 2月


1953/2/2
原対協が実行専門委員会を島病院で開き、第1回診察者75人のうち治療可能者58人を選出。治療方法などを検討
1953/2/3
「原爆文学」論争で広島県立可部高校教諭の新屋章氏が中国新聞夕刊で作家志條みよ子氏に反論
1953/2/4
「原爆文学」論争で広島原爆文学研究会同人の小久保均氏が中国新聞夕刊に「再び『原爆文学について』」の一文を掲載。「原子爆弾は確かに文学の対象たり得る。原爆文学とは原爆を意識的契機として生まれ、原爆にかかわる過去、現在、未来の一切の問題を人間との関連において深く考えようとする文学である」
1953/2/5
岩手県紫波郡古館小の十日市なかよしクラブがクリスマス費用に590円を広島市教委に送付。映画「原爆の子」を見て小遣いなどをためる
1953/2/6
広島県教組と広島の大学スタッフ有志が前東洋大教授で歴史家の服部之総氏を囲んで「平和問題を中心とする懇談会」開催
1953/2/6
爆心地の残存放射能問題でABCCのテーラー所長が中国新聞社の質問に返書。「1950年に広島と長崎で採取した土、樹皮、野菜類をアメリカ本国で調べた結果、広島と長崎の住民に対する生物学的影響という意味では無視されていい微量」
1953/2/6
広島平和問題談話会が広島大の森戸辰男学長、伊藤満・助教授らを囲み憲法改正国民投票案問題を聴く会を開催
1953/2/7
「原爆文学」論争で呉市在住の中川英二氏が中国新聞夕刊に「原爆文学論争を読んで」の一文を掲載。作家志條みよ子氏を支持
1953/2/7
長崎市原爆資料保存委員会が製作を依頼していた長崎原爆娘の歌が完成(「長崎年表」)
1953/2/8
西ドイツ・ケルン市が広島平和記念聖堂に寄贈するパイプオルガンが完成し、ボンで贈呈式
1953/2/9
原対協が原爆障害者のため米国の整形外科治療班の招請をABCCのテーラー所長に依頼。島薫、原田東岷外科医師会代表らが正式依頼書を手渡す
1953/2/9
広島市社会課が原爆弔慰金の請求受け付けを終える。遺族の請求総数は3,170人。内訳は地域国民義勇隊員1,012人、職域国民義勇隊員319人、動員学徒1,833人、女子挺身隊員6人
1953/2/10
ダレス米国務長官が上院外交委員会の秘密会議で証言。「アイゼンハワー大統領は目下、朝鮮における原爆使用などは計画していない」
1953/2/10
西ドイツ・ケルン市から広島平和記念聖堂へのパイプオルガン寄贈についてニューヨーク・タイムズが社説。「恐怖と炎に包まれて死んで行った犠牲者の死を無駄に終わらせるべきではない。両市の市民がわれわれとともに恒久平和の活動に参加するならば、これに過ぎる喜びはない」
1953/2/10
「原爆文学」論争で広島文学同人の池田大江氏が中国新聞夕刊に「平和を叫ぶもの『原爆文学』」を寄稿。「文学はひとり文学の世界にとどまるべきでない。ひとしく人間の世界からみにくい争いをなくし、平和と幸福を招来するものでなくてはならない。現実を遊離した文学の存在価値は無にひとしい」
1953/2/10
広島市に本格的な公会堂建設を目指す第1回打ち合わせ会をガスビルで開催。広島県知事、広島市長、財界有志らが資金調達法や建設計画を検討。計画案は鉄筋4、5階、工費2億円、外国人用宿泊設備などを併設
1953/2/11
原爆被害者の損害賠償問題を討議するため広島弁護士会が臨時総会。被害賠償の民事訴訟が可能か研究する特別調査委員会の設置を決定。
1953/2/11
米原爆スパイ事件で死刑宣告を受けた米国の元電気技師ローゼンバーグ夫妻の助命嘆願書をアイゼンハワー大統領が却下。夫妻は1950年発覚の英原子科学者のスパイ事件に関連し、44、45年に初期の原爆秘密を当時米の同盟国だったソ連に渡した容疑で逮捕。51年に死刑宣告、3回の控訴・上告が棄却され助命を嘆願
1953/2/12
原爆乙女の歌「ほほえみよ還れ」ができ、ヒロシマ・ピース・センターが広島流川教会で発表会。原爆乙女の佐古美智子氏が作詞、巣鴨の戦犯小林美千雄氏が作曲、東京学芸大の渡辺茂教授が編曲
1953/2/13
浜井広島市長が広島青年会議所の2月例会で元産業奨励館のドーム存廃について語る。「私個人の意見は、あの程度の建物は例えば普通の火災でもああなるから原爆の威力を示す参考にはならない。ただ現在は広島をシンボライズする絵として役立っているので、しばらくこのままにするがよいと思う」
1953/2/13
「原爆文学」論争で広島文学同人で大竹在住の原田英彦氏が中国新聞夕刊に「『原爆文学』とは何か」を寄稿。「『原爆文学とは何か』。これを明確にすることは広島文壇の急務であり、最大の課題でもあろう」
1953/2/13
広島の原爆乙女4人が阪大病院でケロイド治療を受けるため大阪に到着、入院
1953/2/13
広島市への公会堂建設で協力を申し出た広島アメリカ文化センター館長フツイ氏に、広島市が関係書類を渡す
1953/2/13
米原爆スパイ事件の死刑囚ローゼンバーグ夫妻に関し、ローマ法王庁がアイゼンハワー大統領に「多数の助命要請が法王ピオ十二世のもとに届けられている」と助命申し入れを発表
1953/2/14
第5回広島医学会総会で広島市大手町の杉本茂憲医師(眼科医)が発表。「原爆による外傷眼は約1年を経過せねば開眼手術が行えず、今まで通りの治療方法では失敗する。原爆で患者の白血球が減少し正常な身体でないことが原因」
1953/2/14
米誌パレードが報道。「米海軍省当局は、建造中の世界最初の原子力潜水艦ノーチラスの性能が北極の氷の海中を潜航してアラスカとソ連間を往復可能と確信」
1953/2/14
「原爆文学」論争で広島文学同人の今田龍夫氏が中国新聞夕刊に「『原爆文学』の解釈」を寄稿。「文学の論理性によって原爆の力を人間の手に復活さすべき意味を持つのが原爆文学」と既掲載の論争を論評
1953/2/14
世界平和広島仏舎利塔建設委員会が20カ条の規約を決定、活動展開へ。会長に浜井広島市長。「この仏舎利を中心に世界的聖地を建設することはわれわれの義務である」
1953/2/15
原対協が早期就業の必要な原爆障害者24人を再診断。入院希望者らが初治療へ
1953/2/15
広島市の幟町教会で、西ドイツから広島平和記念聖堂に贈られた「平和の鐘」4個の到着式
1953/2/16
広島YMCA会館に戦災孤児施設・沖縄厚生園園児から原爆孤児へ励ましの手紙。「人間が互いに殺し合うあの憎い戦争を、世の中から手を取り合って葬り去ろうではありませんか」
1953/2/17
アイゼンハワー米大統領が就任後初の記者会見。「ソ連が原子爆弾を保有していることは絶対に確実」
1953/2/17
広島の原爆乙女4人が阪大病院で整形手術を受ける
1953/2/18
治療を受ける原爆乙女の世話をするためヒロシマ・ピース・センター大阪協力会が発足。会長は世界平和母性協会日本支部長の西脇リカ氏。東京の協力会に次ぎ2つ目
1953/2/18
長崎市議会の原爆都市建設期成委員会の代表団が、原爆犠牲者救済対策折衝のため上京(「長崎年表」)
1953/2/19
広島市議会厚生委員会で市営移管した広島市戦災児育成所の困窮ぶりが問題化。予算措置の遅れが原因
1953/2/20
長崎で白血病患者が相次いで死亡(「長崎年表」)
1953/2/20
米国防総省が「今春ネバダ州で行う原子力実験、軍事演習には米陸海空軍から2万人以上が参加し、原子力戦の想定下で身体保障、戦術について訓練を受けることになろう」と発表
1953/2/21
広島県内の大学の教職員有志約50人が「平和と学問を守る大学人の会」を結成。目的は「平和を擁護し良心と学問の自由を守ること」(規約2条)。5月末には会員数100人を超す(「広島新史・歴史編」)
1953/2/21
広島ペンクラブ会員の豊田清史氏が中国新聞夕刊に「如何に身をつめているか-原爆文学異論を読みて」を寄稿
1953/2/22
「広島子どもを守る会」の発会式が広島市宝町の婦人会館で開催。福祉、教育、文化人ら47人が参加。会長に森滝市郎広島大教授、副会長に山口勇子、土谷厳郎氏。日本人の手による精神養子運動の活動を決定
1953/2/25
三原市在住の久井茂氏が中国新聞夕刊へ「売りもの、買いもの-原爆文学への一考察」を寄稿
1953/2/26
尾道市在住の郷土史家・喜連敏生氏が中国新聞夕刊に「原爆文学への期待」を寄稿
1953/2/27
広島文学同人で晩鐘同人の池田大江氏が中国新聞夕刊に「再び平和を叫ぶもの『原爆短歌』からみて」を寄稿
1953/2/28
広島県佐伯郡原村在住の松原隆良氏が中国新聞夕刊へ「広い、ほんとに広い道がある-原子爆弾と文学」を寄稿
1953/2/28
広島原爆孤児救済募金と銘打った第2回新国劇「沢田祭」が京都市の南座で
1953/2/--
「広島大教育学部東雲分校の子どもを守る会」が提唱した日本人の手による精神養子運動に、北海道、東京など全国から9組の申し出が届く。学習院大教授の清水幾太郎氏も
1953/2/--
第5師団司令部や歩兵、野砲兵各連隊などで爆死した将兵178柱の遺骨が身元不明のまま中部復員連絡局広島支部英霊室に眠る。同支部が調査。広島陸軍病院で死亡の遺骨1,200柱も身元不明のまま安置。一括納骨処理の方針
1953/2/--
広島大理学部萩原教室が進めていた広島市内の残存放射能調査の結果が判明。爆心地から800メートル以内には放射能が残存し、その放射線はガンマ線とベータ線。萩原篤太郎教授「残存放射能は非常に微弱と思えるが、ガンマ、ベータ線は人体に影響があるのではないか」
1953/2/--
「広島文学」2月号発刊。巻頭に原爆女性を主人公にした新人稲田美穂子氏の短編小説「見知られぬ旅」
1953/2/--
「原爆の子」をチェコスロバキアで翻訳出版する照会が編者の広島大・長田新教授に届く。新日本文学会の中野重治氏が仲介
1953/2/--
原爆被害者の会が進めていた被爆者の手記31編がまとまり、三一書房から出版の運びに
1953/2/--
原爆乙女の治療費にと群馬県高崎市の天田ドレス・メーカーの生徒一同が広島、長崎両市長に5,000円ずつ寄付

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