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ヒストリー

ヒロシマの記録1950 1月


1950/1/4
トルーマン米大統領が年頭教書で、「人類は自然の神秘の扉を開き新しい力を支配した。もし人類がこれを賢明に使用すれば新しい高さの文明に到達するであろう。しかしもし使用を誤れば人類を破滅させるであろう」
1950/1/5
「ノーモア・ヒロシマズ」を訴え渡米していた広島流川教会の谷本清牧師が帰国。全米31州、256の町で582回の講演
1950/1/6
ビルマ戦線で一命をとりとめた元米兵から原爆被災家族救援の申し出の手紙が広島市に届く。同市は4人の姉弟が手を取り合って生きる孤児一家を紹介
1950/1/7
米非公式筋が水素爆弾の開発着手を認める
1950/1/7
英誌「インテリジェンス・ダイジェスト」編集長が「ソ連で再び原子爆発」と発表。場所は中央アジア南部
1950/1/7
米国防総省、政府原子力委員会が全米各州知事に原爆防衛法を教えた報告書「原子兵器の医学的側面」を送付。「原爆防衛にはダブダブの白衣」など
1950/1/8
1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着
1950/1/9
米から帰国した谷本清牧師が広島帰着。「原爆の恐ろしさを如実に知らせることは必要だが、卑屈な同情を買う態度は最初から嫌がられる」
1950/1/11
ノーマン・カズンズ氏から精神養子への第1回送金2,000ドルが広島市役所へ届く
1950/1/13
カナダ聖公会のハロルド・マックシェレー牧師が広島市へ。永住を決意し青少年センター建設を構想
1950/1/14
広島市が都市復興へ「広島市民道徳10訓」を発表。「強い信念を持って平和のためにつくしましょう」「正直で、謙譲な市民になりましょう」…
1950/1/15
日本平和問題談話会が講和問題についての声明発表。全面講和、中立不可侵、国連加盟、軍事基地反対、経済的自立を主張(「近代日本総合年表」)
1950/1/15
広島の悲しみを再び人類が経験しないようにとの願いを込め、西日本歌人協会に属する広島在住の歌人らが「平和の歌碑」を広島市比治山に着工
1950/1/20
W・ローレンス「0の暁~原子爆弾の発明・製造・決戦の記録」が創元社から翻訳出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1950/1/24
ウィリアム・デビン米シアトル市長ら19人が広島市を視察
1950/1/26
ソ連の化学工業家パブロ・ルイセンコ氏が亡命先の米で「ソ連は西欧諸国と同程度、またはそれ以上の原子力の知識を持っている。クレムリンが必要と考えれば水素爆弾の製造もちゅうちょしないだろう」
1950/1/27
米原子科学者ハロルド・ユーレイ博士が水爆製造を力説。「米はソ連との軍備競争に敗れて自由を失わないよう水素爆弾の研究と製造に乗り出すべきだ」
1950/1/31
米政府原子力委員会が議会に「米の原子兵器の生産、備蓄は加速度的に進んだ」と報告書
1950/1/31
トルーマン米大統領が政府原子力委員会に対し「水素爆弾、あるいは超爆弾を含めたあらゆる原子兵器に関する作業を続行するよう指令する」との特別声明を発表。「満足すべき原子力国際管理案が実現するまでは米はこれを続ける」
1950/1/--
呉に駐留中のオーストラリア兵士、W・シェリフ軍曹が広島市の歴史を書いた「ヒロシマ」を執筆、出版へ
1950/1/--
かつての広島高校の英語教師チャールス・カップ氏が米国内で広島を説いて7年
1950/1/--
日本の砲丸王、高田静男氏にフィンランドのマラソン選手ヌルミ氏から安否を問う手紙。高田氏は被災当時、爆心地から550メートルのビル内に。大したけがはしなかったが、長女を失う

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