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ヒストリー

ヒロシマの記録1949 4月


1949/4/5
明仁皇太子が広島市を訪問。広島戦災児育成所、宇品のABCCなどへ。6日も
1949/4/6
トルーマン米大統領がワシントンで開かれた民主党全国委員会主催の新議員との懇談昼食会で、「世界の民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、原子爆弾の使用を再び決定することをためらわない」
1949/4/8
広島ペンクラブ発足(「ヒロシマ・25年」)
1949/4/10
広島YMCAが市民の原爆体験記「天よりの大いなる声」出版。集まった約300編のうち16編を掲載。編集者は日本基督教青年同盟代表の末包敏夫氏。東京トリビューン社(「奥付」)
1949/4/10
米政府原子力委員会のシールズ・ウォーレン医学部長が米議会で「日本の原子爆弾被害者の研究費に年180万ドル使用している」
1949/4/11
戦後初の外国人民間観光団(オーストラリア、20人)が広島市を訪問
1949/4/12
尾崎咢堂氏を映画「ヒロシマ」に収録
1949/4/15
米オパーリン大のキャンベル教授が「米国は100~200個の原子爆弾を貯蔵している」
1949/4/17
広島市が原爆爆心地に平和記念公園の建設を決め設計図を全国から募集へ。公園内に平和塔、科学記念館、慰霊堂を設置が条件
1949/4/20
パリで「第1回世界平和擁護大会」。58カ国の代表1,800人が参加。「平和を守るために宗教・信条・党派を超えすべての民族が団結し、一体となって共同行動を起こすことで平和を守ろう」などと決議。大会に参加しようとして入国を拒否された共産圏の代表らはプラハで集会。パリと連絡を取り合い同じ日程で会議を開き、同じ決議をする(「原爆三十年」)
1949/4/20
米第8軍のウオーカー司令官が広島市を視察
1949/4/21
東京で始まった「広島県観光と物産展示会」に「平和の鐘」を展示。28日まで
1949/4/25
ジョン・ハーシー氏の「ヒロシマ」が法政大出版局から翻訳、出版。石川欣一、谷本清氏共訳(「奥付」)
1949/4/26
映画「ヒロシマ」製作のため、米軍岩国航空隊が広島市上空を撮影飛行へ
1949/4/27
ニューヨークの「土曜文学評論」でノーマン・カズンズ、ジョン・ハーシー、谷本清氏で「一大平和運動を広島から起こす。1949年の8月6日に広島生存者10万人の署名を集め、平和請願書をトルーマン米大統領に提出する」ことを決める(「広島原爆とアメリカ人」)
1949/4/29
第3回中国地区市議会議長会議が、広島市で広島平和記念都市建設法の国会通過促進を決議
1949/4/--
原爆犠牲者の慰霊と「ノーモア・ヒロシマズ」の願い込め、平和梵鐘奉賛会が「八時の鐘」製作決める
1949/4/--
東京で開かれた青年祖国戦線結成大会で、広島・長崎代表が世界民青連に対し連名で「原爆の廃虚の中から」と題する呼び掛け。この呼び掛けは5月12、13の両日、モスクワ放送で流された(「平和記念式典の歩み」)
1949/4/--
米カリフォルニア州オークランドの「ノーモア・ヒロシマズ委員会」(アルフレッド・パーカー委員長)から国際ペン・フレンド協会(東京)に原爆体験記送付の依頼
1949/4/--
長崎市が市原爆資料保存委員会を設置し、原爆資料の収集を始める(「長崎年表」)

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