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ヒストリー

ヒロシマの記録1949 5月


1949/5/1
空母による東京爆撃を指揮したドゥリトル米中将がワシントンで「対ソ戦は不可避ではないが、原子爆弾の用意は必要」と講演
1949/5/3
広島市が広島児童文化会館で平和講演会。講師に賀川豊彦、小塩完次氏ら世界連邦主義者(「世界連邦運動・ヒロシマ二十五年史」)
1949/5/10
広島平和記念都市建設法案、長崎国際文化平和都市建設法案が全会一致で衆院本会議を通過。民自党からの議員提案
1949/5/11
広島平和記念都市建設法案、長崎国際文化平和都市建設法案が参院本会議も全会一致で可決。広島建設法案は全文7条、第1条「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」
1949/5/17
米ニューヨーク・デーリー・ニューズがシカゴのアルゴンヌ原子力研究所からウラニウム235の四分の三ポンドが盗まれたと報道
1949/5/30
浜井広島市長が「第3回の8月6日平和祭行事としてトルーマン大統領に『国連を強化し世界連邦樹立を』と要請する電報を打ちたい。戦争防止を訴える市民署名運動を起こしたい」と構想。5月13日に署名運動を促す手紙をジョン・ハーシー氏から受け取る(夕刊ひろしま5・31、1965・7・30)
1949/5/--
被爆直後からの広島の復興状況をまとめたグラフ誌「リビング・ヒロシマ」海外版(文・中島健藏氏、写真・木村伊兵衛氏)が完成。広島県観光協会発行
1949/5/--
建設省が広島平和記念館建設案を省議決定。2年の継続事業で2億円
1949/5/--
広鉄局が外国人観光客誘致へ英文パンフレット「ヒロシマイエスタデー&トデー」を発行
1949/5/--
広島市内の目抜き通り、市役所-紙屋町-中央公園を「マッカーサー道路」と命名の構想
1949/5/--
広島、長崎両市の間で平和都市建設法案めぐりトラブル。中国新聞はコラムで「(長崎が広島に)出し抜かれたのを怒って同一内容の法案を慌てて出すというのははたしてどんなものか一考を要する。平和センターが二つあるということはだれが考えてもおかしな話である。…広島の被爆が世界最初の先例となり、それが戦争に終止符をうった大切な機縁を作ったから、戦争の悲劇を再び繰り返すなという悲願が生まれ、発して画期的平和宣言となり、平和都市建設へ進むことは確かに理由のあることである。…いずれにせよ世界最初の被爆地ということは大切な条件で尊重されねばなるまい」
1949/5/--
広島市議会が6月4日からスイスで開かれる道徳再武装(MRA)運動国際会議に出席する賀川豊彦氏に原爆当時の写真12枚を託すことを決定
1949/5/--
広島市社会課が市内の未亡人は6,193人と発表
1949/5/--
広島市牛田町不動院内の国宝金堂修理に国庫補助250万円
1949/5/--
長崎市が爆心地の平和公園に原爆資料館を開設(「長崎年表」)

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