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ヒストリー

ヒロシマの記録1949 10月


1949/10/1
フロイド・シュモー氏らのヒロシマ・ハウス(市営住宅)4戸が広島市皆実町に完成。入居者が出席し贈呈式。シュモー氏「平和運動とは言うことではなく行うことだ」
1949/10/2
東京の反ファッショ平和擁護大会の大会宣言に原爆禁止を盛り込む。「今日、原子兵器の惨禍の脅威は倍加された。よってわれわれは今日、従来にもまして使用禁止を広く世界に向かって要求しなければならぬ。原子爆弾の悲惨な体験を持つわれわれ日本人のそれは権利であり、同時にまた全人類に対する聖なる義務である」(「ヒロシマの記録」)
1949/10/2
フロイド・シュモー氏が広島市的場町の在日朝鮮キリスト教広島中央教会で朝鮮人信者約60人と「世界一つに」と平和の祈り
1949/10/2
広島女学院中学講堂に約200人が集まり平和擁護広島大会を開く。原子爆弾製造禁止の宣言
1949/10/3
平和文化都市建設協議会第1回委員会を参院第2委員会室で開く。委員長に益谷秀次建設相。平和都市法の具体化をめざし、記念公園、記念館、記念街路の建設を決める(「平和記念式典の歩み」)
1949/10/10
ジョンソン米国防長官が米セントポール市で「米は原子兵器の生産で今後も世界をリードできる。原子力の国際管理協定はますます必要となってきた」
1949/10/11
マリク・ソ連外務次官が国連安保理で世界の兵力および武器資材の調査(仏提案)に原子爆弾も含めるべきだと主張。米は反発
1949/10/13
仏週刊紙サムデイ・ソワールが脱出ソ連将校の会見を掲載。「ソ連の最初の原子爆発は7月10日、モルニア・イナズマと名付けられ、スターリン首相ら立ち会いのもと行われた」=後に誤報と判明
1949/10/17
広島児童文化会館で約2,000人が参加し第4回全国民生・児童委員大会。国連とトルーマン米大統領にあて世界平和確立の懇請決議を打電
1949/10/18
ビシンスキー・ソ連外相がニューヨークで「ソ連の原子爆弾は1947年以来現実の武器となっている」(10・20)
1949/10/18
米政府原子力委員会のマクマホン委員長がテネシー、ワシントン両州の原子力工場の大幅拡張を発表(10・20)
1949/10/18
米のノーマン・カズンズ氏から浜井広島市長に「広島戦災児育成所の子供たちを米に迎えたい。しかし、現段階では日本の孤児を法的に養子として米に迎えることは不可能なため『精神養子運動』を進めたい。将来は戦災児育成所以外の一般原爆孤児も対象にしたい」と手紙
1949/10/23
米科学者が政府原子力委員会に「原爆患者のほとんどは現在全治、放射能による原子症も効果的な治療法により近い将来、完治するだろう」と報告(夕刊ひろしま10・25)
1949/10/26
国連原子力委員会が「原子力国際管理に関する交渉失敗」と経過を発表
1949/10/27
ブランディ米大西洋艦隊司令官が「ソ連の原子爆弾のストックは今後2年間で米に匹敵する可能性がある」
1949/10/28
広島戦災児育成所に米から精神養子の申し込み第1号。ニューヨーク市のキリスト教国際団体「親睦会」パーク学院部
1949/10/28
メキシコ市で開催中の国際軍医学大会が原子爆弾の禁止を世界に呼び掛けることを全会一致で決議。28カ国参加
1949/10/31
ローマで開催中の平和擁護大会国際委員会が原子兵器の破壊と製造禁止を決議
1949/10/31
ハワイ・ホノルル市の広島戦災救済会からの救援金(4万5,000ドル)の使途原案が決まる。養老院新設760万円、母子寮新設530万円など
1949/10/--
広島市がフロイド・シュモー氏に広島の記念品として石灯ろうを贈ることを決定
1949/10/--
スイスのコーで開かれているMRA運動大会に参加している山田節男参院議員から浜井広島市長に、大会の模様を知らせる手紙が届く。「広島は多大な関心をもって受け入れられている」
1949/10/--
仏アルザス退役軍人戦傷者同盟から「8月6日を世界平和日にしよう」と浜井広島市長に手紙
1949/10/--
広島戦災児育成所が文部省の補助打ち切りで経営難に

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