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ヒストリー

ヒロシマの記録1949 11月


1949/11/9
ロムロ国連総会議長が行き詰まっている原子力国際管理問題で暫定案
1949/11/10
ビシンスキー・ソ連外相が国連総会特別政治委員会で原子爆発の平和利用を明らかにし、「ソ連は必要なときにはいつでも十分な原子爆弾を保有できる」と警告(11・12)
1949/11/10
小久保均氏らが同人誌「世代」を創刊(「ヒロシマ・25年」)
1949/11/17
ABCCの招きで同研究所を訪れた古畑種基東大医学部教授が「血液型と遺伝」を講演
1949/11/18
エドウィン・ジョンソン米上院議員がテレビで「米は広島・長崎型原爆の1,000倍の威力の『超原子爆弾』を開発している」と発言
1949/11/18
広島ユネスコ協力会が発足。会長、長田新広島大教授
1949/11/19
9月にABCCの要請で広島市などを訪れた米のデビッド・コーガン博士がボストンで、広島・長崎の原爆被害者の間に白内障が多発していると発表。「爆心から1,000メートル以内にいた237人のうち10人が原子爆弾の放射能によって明らかに白内障を起こしている。ほかにも疑わしい患者がたくさんいる」
1949/11/20
広島市で広島、長崎両原爆都市青年交歓会を開く。長崎から18人参加。「われら青年は再び原爆の悲劇を繰り返さぬよう平和のためあらゆる努力を傾注する」など「5つの誓い」を決定。長崎・永井隆博士宅のバラを広島市役所前庭と爆心地に移植
1949/11/23
デビッド・リリエンソール米政府原子力委員会委員長が大統領に辞表提出。1950年2月15日付で正式辞任。1946年10月から初代委員長
1949/11/23
国連総会が原子力管理について「すべての国がその主権の一部を原子力国際管理機関に委譲する」との西欧案を可決
1949/11/26
国際ペンクラブ大会(1950年・英国)出席に備え川端康成日本ペンクラブ会長らが広島市を訪問。「ヒロシマのことは来てみなければ実態は決して得られない。見ないで想像したくらいではとても思いもよらない」
1949/11/28
衆議院考査委員会が湯川秀樹、永井隆氏の表彰を決定
1949/11/29
米国防総省、米政府原子力委がエニウェトク環礁で原爆実験を計画と発表
1949/11/--
スイスのMRA運動大会から帰国した山田節男参院議員が広島市役所で「広島県知事、市長から預かって行ったメッセージは大会で大きな反響を呼んだ」と報告(11・2)
1949/11/--
浜井広島市長がノーマン・カズンズ氏の勧めでトルーマン大統領に10万人署名を受け取ってほしいとの新メッセージを送る。「一国民が他の国家の元首に請願することは奇異に感じられるかもしれないが、今日のアメリカは単なる地球上の一国家というより世界の平和、世界の希望をつないでいる国であると考えるのが請願書を提出する理由である。…われわれは世界の人々にヒロシマで何が起こったか、いかにして、なにゆえ起こったかを知ってほしい。そしてかかる災害が二度と世界のどこにも発生しないよう懸命な努力を続けていることを知ってほしい。世界平和を確立するまでには幾多の困難も横たわっているが、アメリカが率先して打開に当たれば解決は不可能ではない。大統領におかれてはかかる気持ちを了として市民の請願を受理されたい」(11・3)
1949/11/--
トルーマン米大統領にあてた広島市民の「10万人署名」がワシントンの国務省に届く。大統領は受け取りを拒否(「原水爆時代上」)
1949/11/--
広島市がジョン・ハーシー氏に招待状を送ることを決める。「その後の広島を取材してもらいたい」

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