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ヒストリー

ヒロシマの記録1948 3月


1948/3/1
ABCC所長にカール・テスマー中佐が就任(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1948/3/1
米太平洋艦隊司令長官グリフィン大将が広島市を訪問。被爆状況を視察、広島赤十字病院で入院患者を見舞う
1948/3/6
上京した広島流川教会の谷本清牧師をUP通信の特派員ルサフォード・ポーツ氏が取材。「広島の悲劇を世界どこの国にも再現させたくない」との答えを、「ノーモア・ヒロシマズ」と打電。米国での運動のきっかけに
1948/3/7
第1回広島県学校復興宝くじの抽せん発表が広島東宝映画劇場で。特等20万円、特賞総桐たんす 1948/3/8
広島児童文化会館が上棟式。広島市内28校の学童2万2,538人分の18万6,686円20銭が1回目の建設資金として贈られる
1948/3/9
米カリフォルニア大のロレンス教授が「原子核破壊装置により素粒子メソン中間子が初めて人工生成された」と発表。従来原爆の数千倍の威力を持つ爆弾も可能に(3・12)
1948/3/14
中国の王世杰外交部長が言明。「現在、原子爆弾の秘密を知っているのは米英カナダに限られているが、5年後にはこの秘密は世界に知れわたるであろう。原子爆弾戦争を避けることは世界の政治家に課せられた緊急課題」(3・16)
1948/3/17
広島国立総合大学設立在京促進会が発足(3・18)
1948/3/17
広島市復興審議会が最後の諮問をし、解散。1945年末に発足した都市計画の市長諮問機関の審議にピリオド
1948/3/18
建設院が発表した終戦から1947年末までの長崎市の復興率は16.2%。全国で32位(「長崎年表」)
1948/3/22
米共和党下院議員アーサー・ミラー氏が「地中海派遣の米艦隊は日本に投下された原爆より一層強力な原子爆弾を積載」と言明。米海軍当局は否定
1948/3/24
仏の原子科学者キュリー夫人が訪問中の米で演説。「ソ連が原爆製造法の秘密を解決するのは間近」
1948/3/25
広島駅本館が2年7カ月ぶりに復旧。午前零時から使用開始。復旧費458万7,000円
1948/3/26
米ロサンゼルスの復興援助促進会から初の資金3千数百ドルが広島商工会議所に届く
1948/3/28
全国の戦災都市にさきがけ、広島市観光協会と広島電鉄などが爆心地や旧名所を巡る遊覧観光バスの運行を計画、試運転
1948/3/28
街の面影を書きとめる「広島の顔」制作を瀬戸内海評論社が計画。中井文彦、畑耕一、南薫造の各氏ら広島ゆかりの創作家、詩人、画家が集まる
1948/3/29
原爆による焼失で尾道市に移っていた広島文理科大付属理論物理学研究所が広島県賀茂郡竹原町に移転開所
1948/3/31
広島ABCC内に厚生省国立予防衛生研究所広島支所が開設。日米一体で調査研究事業へ(「放射線影響研究所10年の歩み」)
1948/3/31
広島市議会に旧軍用地無償払下特別委員会が設置(「広島市議会史議事資料編2」)
1948/3/--
被爆後の広島市の人口動態調査が完了。5万7,026世帯、22万2,434人。被爆直後の1945年11月から2年余で2万3,754世帯、8万5,906人の増加。調査は1947年10月1日現在の国勢調査に基づく
1948/3/--
「ヒロシマ」の著者ジョン・ハーシー氏を再び招き、復興する広島の姿を「続ヒロシマ」に書いてもらう運動を建築家村田正氏が提唱

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