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ヒストリー

ヒロシマの記録1948 8月


1948/8/1
中国新聞が1面の被爆3周年報道で「NOMOREHIROSHIMAS」の見出しを掲げる
1948/8/1
広島流川教会の谷本清牧師が「進めノーモア・ヒロシマズ」の一文を中国新聞に寄稿、運動の推進を訴え(8・1)
1948/8/1
広島市が常住人口調査。配給米、保有米で暮らす人口は24万6,134人
1948/8/1
「月刊中国」8月号に「原爆から立上る六人」を掲載。ジョン・ハーシー氏著「ヒロシマ」に登場する6人のその後を描く(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1948/8/3
被爆3周年を前に浜井広島市長が談話を発表。「3年前から広島市民にとって8月6日は単なる暦の一日でなくなった。悲しむべき恐るべき体験は市民の心に戦争を拒否して世界平和を樹立せんとする願いを呼び覚ました。人類平和の悲願こそ犠牲者を生かす所以。それが広島市民に課せられた使命であり責任である」
1948/8/5
平和祭参列のため広島訪問の森戸辰男文相が記者会見。「世界は今、平和の道を見いだそうとしている。武器を捨てた日本、特に広島は世界平和の道しるべとならねばならない」
1948/8/5
浜井広島市長が過去3年間の復興の歩みと今後の諸問題を発表、市民に理解と協力を求める。「現在の都市計画は最低線であり、これが実現されない限り将来の広島はない」
1948/8/5
UP通信東京支局長ホープライト氏が平和祭の様子を世界の新聞に報道するため原爆投下後3回目の広島市訪問
1948/8/5
第1回平和美術展覧会が広島市袋町小で開催。県内はじめ国立東京博物館、大原美術館の名画400点余を展示。15日まで
1948/8/6
平和祭式典に参加した広島市青年連合会の若者ら約1,000人が市内を行進。「ノーモア・ヒロシマズ」などのプラカードを掲げ、慈仙寺鼻の供養塔から市役所へ行進(8・7)
1948/8/6
世界20カ国で世界平和デーの集会を開く(「ヒロシマの記録」)
1948/8/6
国際反戦連盟30カ国50支部の委員が英シリウスベリーで「ノーモア・ヒロシマズ」を宣言(「ヒロシマの記録」)
1948/8/6
浜井広島市長が世界160都市の市長にメッセージを送る。「今、広島市民は焦土に立って戦争のほかの何ものをも恨まず、永遠平和のほかの何ものをも欲しないのであります。かつての軍都広島は1945年8月6日を境として今や文化の都、平和の都を目指して新たなる建設へと努力しております。これはまことに遅々たる歩みではありますが、広島を世界平和のメッカたらしめることは広島市民の精魂を傾け、情熱と意欲に支えられた大事業であります」
1948/8/6
浜井市長の平和宣言「3年前のこの日この朝、われらの父祖の都市は一瞬にして暗黒の死都と化し、10数万の市民は尊い生命を捨てた。その惨状は今なおわれらの脳裏を去らない。しかしながらこの戦禍は将来の戦争がいかなるものであるかを示唆し、戦争による人類絶滅の危険を警告すると同時に、戦争のため傾注せられた人類の努力と総意とをもってすれば世界平和の建設が決して不可能でないことを確信せしめた。この教訓を生かすことこそ地下に眠る犠牲者の犠牲を意義あらしめる唯一の道であり、世界人類に対する最大の貢献でなければならない。われら広島市民はここに厳かに平和式典を営み、あえてこの教訓を全世界に伝え、再び第二の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」▽マッカーサー元帥メッセージ(代読)「広島の人たちが再起に目覚ましい進歩を示しているのに心から祝辞を贈る」▽ロバートソン中将演説「今日、広島市は再び生命を取り戻した。この度の原因が日本国民自身にあることを思い起こさねばなりません。開戦布告を与えずに日本は裏切り的に英連邦諸国民ならびにアメリカ国民を襲撃し、その国民に非常な痛苦を与えたのでした。広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上、受くべき日本全体への報復の一部とみなさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」
1948/8/6
オーストラリア国会議員団のハイラン氏が平和祭の式典後に感想。「短時間の復興がよく分かる。式典で日本が平和を愛することを知った」
1948/8/6
被爆3周年の平和祭式典が平和広場で開かれる。英連邦軍総司令官ロバートソン中将、クロワード広島軍政部長やオーストラリア国会議員団8人も参列。平和の歌合唱、浜井広島市長の平和宣言、マッカーサー元帥、芦田首相、衆参両院議長、森戸辰男文相らの各メッセージ。UP通信、ビーコン紙など各国報道機関が取材
1948/8/6
英連邦軍総司令官ロバートソン中将が平和美術展覧会で森元国夫氏の作品「廃墟に祈る」を「軍に引き取ってオーストラリアに寄付したい」と申し出
1948/8/6
広島市的場大通商店街が的場町の太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て法要。猿猴川で川施餓鬼のとうろう流し
1948/8/6
広島市の段原大畑町青年同志会などが戦災孤児400人を的場町オリオン座に招き演芸などでもてなす
1948/8/6
広島東商店街連盟が平和祭に合わせ猿猴橋河畔を中心に川供養や花火供養
1948/8/6
広島逓信局が平和祭の記念スタンプを作り、3日間、希望者になつ印。図柄は平和塔に3羽のハトをあしらい、全国マニアから申し込み殺到
1948/8/6
「アトム・ヒロシマ写真画展」を広島市堀川町金座街の茶房メイ・フラワー階上ホールで開く。3日間。中国新聞写真部5人の被爆写真と福井芳郎、木谷徳一画伯の被爆スケッチなど展示
1948/8/6
中国紙の大公報が「原子爆弾の日」と題した社説を掲載。「日本の平和熱は信じられない。今日、原子力の応用はまだその過程にあり、世界の繁栄か破壊かは人類の知恵がいずれを取るかにかかっている」
1948/8/6
米のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が広島の復興ぶりを撮影した写真2枚と元産業奨励館のドーム、浜井広島市長の近影を2面トップに9段抜きで掲載(8・24)
1948/8/6
広島復興の記録映画「ノーモア・ヒロシマズ」が平和祭を皮切りに撮影開始。都市破壊と建設を記録へ。5日に内外映画社のスタッフが広島入り
1948/8/6
ラジオ人気番組のNHK「世界の音楽」公開演奏会が広島児童文化会館で開催。「平和の歌」などを全国放送
1948/8/6
宗教連盟広島県支部と広島市戦災供養会が戦災死没者慰霊祭。各宗派が中島供養塔で慰霊。似島の供養塔でも各宗派合同の慰霊祭
1948/8/7
平和祭の旅客混雑解消に山陽線広島-岩国間に臨時列車。芸備線は5~9日、可部線は6~8日に臨時便
1948/8/8
平和祭記念蹴球大会が広島市の鯉城高校で開催。仁保青年(青年の部)、東洋工業(職域の部)が優勝(8・9)
1948/8/8
平和祭行事としてボーイ・スカウト国際ジャンボリーが広島児童文化会館前広場で開催
1948/8/9
爆心地の長崎市松山町で長崎市主催の文化祭と戦災者連盟主催の供養会。文化祭で市民代表の平和宣言、マッカーサー元帥のメッセージ。大音寺で仏教会主催の被爆死者追悼大法要。平和宣言「わが長崎の地は、世界における原爆の起点として世界戦争に終止符を打った土地であって、この原爆の未曾有の惨禍を一転機として平和な明るい希望がもたらされた。その意味から長崎は世界的な地位において最も印象の深い土地であり、アトム長崎を再び繰り返すなと絶叫することによって、恒久的平和は確立するものと信じて疑わぬ。我々は、この文化祭の式典に当たって、ノーモア・ナガサキを力強く標ぼうし、広く世界に宣明せんことを期し、ここに宣言す」(「長崎市平和宣言集」)
1948/8/9
同志社総長の湯浅八郎氏が広島女学院講堂で「原子力時代と世界平和」と題して平和祭の記念講演
1948/8/10
労働省婦人少年局広島職員室主任の小林とし子さんらの呼びかけで、被爆女性ら8人が参加し、広島県内の傷痍婦人協力大会が本川小学校で開催。田崎アキエさんを議長に選び、原爆ゆえに起こった苦しみや悩みを話し合う。(1)国家的に医療研究を取り上げて全力を注がれんことを望む(2)実費診療ならびに半年1回の無料健康診断を望む-など6項目を決議し、芦田首相に提出へ。同じ境遇の女性だけが集まったのは広島では初めて
1948/8/11
米オークランド市のアルフレッド・パーカー氏から平和祭に寄せた手紙が浜井広島市長に届く。「われわれの願いは世界のいかなる都市にも二度と原子爆弾が投下されないことだ」
1948/8/13
平和美術展に出品した川合玉堂画伯が出品作品「小春の渡場」を広島復興の一助として広島平和協会に寄贈申し出
1948/8/14
中国新聞社と日本文化平和協会が募集し、弘田龍太郎氏が作曲した「平和の歌」(作詞・丸山静氏)の発表音楽会が広島市八丁堀の東洋座で開催
1948/8/18
米ネブラスカ州コーザットの詩人エドワード・ニールセン氏から浜井広島市長に「再び世界に戦争が起こらぬよう平和記念館をお造りなさい」との短詩の手紙が届く
1948/8/20
平和記念都市建設事業を促進するため海外などの協力を求める推進機関として広島県、市、民間が一体で広島建設委員会を設置(「広島平和記念都市建設法第5条の規定に基づく報告書」1951年2月1日)
1948/8/20
浜井広島市長の平和メッセージに対しサンフランシスコ市のロビンソン市長ら米国から3通の返信。ロ市長「アトムのような破壊的なものが再び地球上に落ちないことを希望する」
1948/8/21
被爆後の廃虚で宗教復興活動をする広島市上流川町のメソジスト教会の修理が完成、記念祝賀行事を開く。23日まで
1948/8/24
国際平和大学、国際学生会館建設期成同盟会の運動として広島県内の女学生10数人が米英軍政部教育課に協力を懇請。トラックで市内をデモ行進
1948/8/25
中島茂喜衆院国土計画委員長が広島市を訪問。「原爆という特殊事情にある都市でもあり、特別な援助方を国会に反映したいが、地元でもいま一段と世論の喚起に熱を持ってもらいたい」
1948/8/25
広島市復興顧問ジャビー少佐が東京での在京広島県出身者との座談会で復興プランを発表。「交通網の改善、原爆記念物の保存、工業地帯の設定」など6点。「急務は旧軍用地の獲得」と語る
1948/8/25
ポーランドのロツワナで平和擁護のための世界知識人会議開く。アインシュタイン博士、キュリー夫妻ら45カ国500人が参加
1948/8/31
日本文化平和協会が「恒久平和論」を発刊。平和論の理論的研究へ矢内原忠雄、森戸辰男、長田新氏らが主張を発表
1948/8/--
画家武永槙雄氏が平和祈念と原爆犠牲者の供養のため自作の絵「原爆観音像」を平和広場の礼拝堂に安置
1948/8/--
広島県土木部が「20年後の広島復興構想図」を発行。市民の復興意欲向上と被爆都市への外資導入のため海外発送も計画
1948/8/--
米ロサンゼルスの広島県人会の救援募金が1万2,000ドルに達し、似島学園など5施設548人に贈ることを決定
1948/8/--
広島逓信病院の蜂谷道彦院長が「われわれはもはや完全に原爆症から解放されている」と語る
1948/8/--
広島市観光協会が爆心の元産業奨励館の存廃について世論調査。604通の回答で存置436通、否存置168通
1948/8/--
米オークリッジ国立研究所の科学者が原子番号43と61に相当する新元素2種類を発見した、と米科学専門記者が報じる
1948/8/--
広島逓信病院が448症例を中心に原爆症研究の結果をまとめる。「原爆創傷の治療後2~6カ月で瘢痕が隆起し、1945年12月末から1946年7月ごろまで高さが低くなり、また柔らかくなって1947年初め大体一定した」

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