×

ヒストリー

ヒロシマの記録1948 10月


1948/10/1
ソ連のビシンスキー外務次官が国連第1委員会で米の原子力管理案を痛烈に批判
1948/10/2
米コロンビア大学のポール・カー教授がセンゲライトと称する新放射性物質を発見と発表
1948/10/2
ソ連のビシンスキー外務次官が国連総会第1委員会でソ連の原子力政策を修正した譲歩案を提出。西欧側は「原子力兵器の廃棄を国際管理の前提条件とする従来の主張からは大きな変化だが、これはソ連流の駆け引き」と冷淡(10・4)
1948/10/2
戦災で倒壊の日本バプテスト広島キリスト教会(千田町)が広島市小町の元控訴院跡に完成し献堂式
1948/10/3
モスクワ放送の政治解説者はソ連のビシンスキー外務次官が国連総会第1委員会で行った新提案を批判
1948/10/5
8月に訪日し原爆放射能について調査した米医学協会会長ロスコ・センセニック博士がワシントンの同協会総会で演説。「広島、長崎両市の放射能は全く消滅した。持久性放射能の危険性は誇張して考えられているようだ」
1948/10/5
広島流川教会の谷本清牧師がサンフランシスコに到着。被爆者として「ノーモア・ヒロシマズ」を訴える活動を開始。アトランタでは原爆投下機とともに広島上空にいたB29の操縦士トム・ソフゲ大尉と面会(「広島原爆とアメリカ人」)
1948/10/6
日蓮宗総本山身延山管長の深見日円師ら一行が広島市を訪問。慈仙寺鼻の供養塔で信徒と追悼法要(夕刊ひろしま10・7)
1948/10/10
「夕刊ひろしま」が「あなたはいつまでそのままで?」の見出しで広島市内の原爆遺跡の写真を掲載。元産業奨励館のドームについて「このような悲惨以外のなにものでもない残ガイを都市のドまん中に放置したまま足かけ4年-自分のアバタ面を世界に誇示して同情を引こうとする貧乏根性を広島市民はもはや清算しなければいけない」(夕刊ひろしま10・10)
1948/10/13
都市計画をテーマにした広島市の第3回公開世相討論会で、日赤広島支部参事の中邑元氏が「市民の復興熱意が足りない。市民は不熱心ではないかもしれないが無関心」と指摘
1948/10/13
ヘレン・ケラー女史が11年ぶりに広島市を訪問。約1,000人の市民が出迎え、歓迎県民大会、慈仙寺鼻の供養塔へ。広島市役所で浜井市長らに語る。「あなたはジョン・ハーシーの「ヒロシマ」を読みましたか。原爆は古代ギリシャの悲劇の再現です。広島は世界に光る平和の街になって下さい」
1948/10/15
広島市文化団体協議会(長田新会長)が発足。運営難の広島児童文化会館の支援に乗り出す(夕刊ひろしま10・30、11・30)
1948/10/16
米オークリッジの原子力研究所熱力学研究部長のデビッド・プール氏が「原子力による航空機を研究中」と語る
1948/10/18
ヘレン・ケラー女史が長崎市を訪問、被爆で病床の永井隆長崎医大教授を励ます。長崎医大跡で足下の土塊を手に「原子爆弾のにおいがする」
1948/10/19
大映京都の演出家・伊藤大輔氏が中国新聞社で原爆資料を閲覧。広島を背景にした次回作品の構想を練る
1948/10/21
高松宮が広島市を訪問。3日間、似島学園の慰問や県内スポーツ界の現状を視察
1948/10/22
学術研究会議理論物理学研究特別委員会総会が広島県賀茂郡竹原町の広島文理科大付属理論物理学研究所で開催。24日まで
1948/10/23
広島放送管弦楽団を中心に広島で初の交響楽団が誕生し、呉市土肥高校で初演奏会。24日には広島市皆実町の広島高校講堂で演奏会
1948/10/26
原爆都市の観光施設整備へ広島市議会産業復興合同委員会が国際観光ホテル計画を市案として決定。鉄筋3階、56室
1948/10/26
職場の文学愛好者有志が集まり広島地方文学サークル協議会を結成
1948/10/27
ロンドン・デーリー・エクスプレス日本特派員のセプトン・デルマー氏が広島市を訪問。浜井広島市長らから復興状況を取材。「これだけ復興したのは驚異的な市民の努力」
1948/10/30
CIE図書館が広島市下中町の第一県女跡で開館式、千田町から移る。総工費350万円、蔵書3,000冊、雑誌など350種
1948/10/31
ABCCの呉研究所が呉市公園通5丁目の呉共済病院の隣接地に完成
1948/10/--
原子力関係工場からの共産党系組合締め出しに対し、産業別組織会議(CIO)のフィリップ・マレー議長が米政府原子力委員会に再考を要請
1948/10/--
米ノートルダム修道院が原爆都市広島に設立する女子総合学園「清心学園」の設計図完成。広島市と広島教会が敷地(東練兵場跡)問題で折衝

年別アーカイブ