×

ヒストリー

ヒロシマの記録1947 5月


1947/5/1
広島市の5月1日現在の人口21万4,706人
1947/5/5
東京・築地本願寺で全日本宗教平和会議。6日まで。宗教平和宣言をし、ローマ法王らに送る
1947/5/10
米ネブラスカ州「少年の町」の創始者、エドワード・フラナガン神父が広島市へ。広島戦災児育成所を訪れ、「少年の町の友だちから皆さんによろしく。皆さんが良い子になって下さいと伝えるためにやってきました」
1947/5/12
米CBS放送が終戦2周年記念番組「世界の声」制作のため広島入り。広島の現状と被爆者を取材。番組は終戦記念日の8月14日(米日付)放送へ
1947/5/15
アーネスト・ホープライトUP特派員が5月15日付スターズ・アンド・ストライプス(星条旗紙)に広島訪問記。「浜井広島市長は国連原子力管理委員会に出席し、原子力を平時に使用することの必要性を述べたいと語った。現在の広島にはアメリカに対する親しみを示すものが多くある」
1947/5/27
米原子爆弾被害調査委員会メンバーのオースチン・ブルーズ教授(シカゴ医科大学)が同日発行の「原子力科学者会報」で「原子爆弾投下から降伏まで」と題して報告。「日本の科学者は投下後、2、3時間のうちに爆発が原子爆弾によるものではないかとの疑問を抱いた」
1947/5/30
米原子爆弾被害調査委員会シールズ・ウォーレン海軍軍医大佐、カール・テスマー陸軍軍医中佐が広島市を訪問。「1945年11月に訪れたときは広島の復興は望めないと思ったが、今日の復興ぶりには驚いた」
1947/5/31
広島高裁、地裁などの新庁舎が旧西練兵場二部隊跡に落成
1947/5/--
1月に広島市を訪れたハワード・ベル米青少年赤十字団東部地区長が広島市本川小に「設備のないところに完全な教育はない。早く復興作業に着手して学童を寒風から守って」と米製の鉛筆と現金2,500円を託す
1947/5/--
広島市細工町の広島郵便局跡に残る高度30メートルの無電塔に「爆心地」の看板。原爆ドーム南側にあった点茶の数寄五流荘主人の発案

年別アーカイブ