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ヒストリー

ヒロシマの記録1947 7月


1947/7/14
日蓮門下院8カ寺の僧侶、広島立正婦人協会員約1,000人が、被爆死者の霊を慰め爆心地近くで水供養
1947/7/16
米ABC放送が被爆者、浜井広島市長、市民など広島の声を録音。8月6日放送へ
1947/7/16
連合国軍総司令部が都築正男博士の公職追放猶予を取り消す。ABCCメンバーも解任(「広島新史・資料編1」)
1947/7/18
米陸軍省招待のマイルス・ボーンUP通信社東洋方面副社長ら10人が広島市を視察。広島赤十字病院で入院患者の1人吉川清氏が訴え。「私は研究材料となり渡米して米の科学者の実験台に上りたい。世界永久平和のために役立つことができるなら死んでも問題ではない」(「ヒロシマの記録」)
1947/7/19
世界的原子科学者ドイツのヘンリ・ボムカ博士が「私はソ連がすでに原子爆弾を保有していると信じている」と言明
1947/7/22
広島平和祭協会が「平和の歌」「広場名」の入選者を発表。「平和の歌」作詞は広島県豊田郡豊田村、豊田中学校の重園贇雄さん。広島中等教育音楽協会、山本秀さんが作曲へ。広場の名称は「平和広場」(中島慈仙寺鼻)、「市民広場」(旧護国神社前)に
1947/7/23
米政府原子力委員会が「太平洋方面に原子兵器の常設試験場を設置中」と発表
1947/7/25
エバット・オーストラリア外相が広島市を視察
1947/7/29
ボーンUP通信社東洋方面副社長が中国新聞紙上で「ピカドン記念公園・博物館」の設立を呼び掛け。「何かの形式においてピカドン博物館の建設を望んでいる。その博物館にはピカドンに関する資料、写真などが展示されるだろう」
1947/7/30
広島市会復興委員会が第1回換地を発表
1947/7/31
広島市が「毎年8月6日は本市の平和記念日として市役所事務を休停する」との広島市事務休停日条例を公布施行(「広島新史・年表」)
1947/7/--
広島市を世界平和のメッカにしようと長田新広島文理大教授らを中心に運動。「広島城跡に米の自由の女神と同じ物を」
1947/7/--
広島平和祭協会が8月6日の平和祭の大綱を決める。式典は爆心地の慈仙寺鼻の供養塔前で挙行。午前8時15分、広島市長の平和の鐘、全市一斉サイレン、平和の祈りに続き、平和メッセージを発表、平和のハトを放ち平和賛歌を歌う-と現行スタイルが固まる
1947/7/--
7月上旬から爆心地の慈仙寺鼻供養塔前に平和塔(高さ約10メートル)と野外音楽堂の建設が始まる(「平和記念式典の歩み」)

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