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ヒストリー

ヒロシマの記録1946 2月


1946/2/2
中央連絡事務局が連合国軍総司令部に原爆被害者数を死者7万8,000人と報告。1945年11月30日現在で広島県警察部がまとめた数と同じ
1946/2/6
中国新聞が広島市の半年間の復興状況まとめる。住宅=7万4,163戸のうち91%、6万7,840戸が灰じんに帰したが、住宅営団により1,000戸、市民自らの手で5,000戸の計6,000戸が建つ
1946/2/6
中国新聞が「けふ原子爆弾落ちて半年」の記事。広島市の新旧人口対比図を掲載し、1945年7月1日24万5,423人だった人口が46年1月1日は15万1,693人
1946/2/7
米軍が5月にマーシャル諸島ビキニ環礁で、軍艦を標的に原子爆弾投下実験の実施決める-。AP通信が伝える。標的艦は戦艦長門など。14日、フォレスター米海軍長官が上院で「第1回実験は5月15日、第2回は7月1日の予定」と言明
1946/2/10
広島市比治山国民学校に収容の戦災孤児16人全員が広島戦災児育成所(山下義信所長)に移り、比治山孤児収容所は閉鎖。育成所の孤児は56人に
1946/2/10
中国文化連盟が広島市青崎国民学校で、原子爆弾犠牲者追悼文化人大会。長田新広島文理科大学長、細田民樹、畑耕一、大田洋子氏らが参加
1946/2/11
中国新聞が主催し戦後初の広島スポーツの祭典、広島-呉駅伝
1946/2/12
広島県庁で県戦災都市復興会議
1946/2/23
広島県佐伯郡玖島村(現佐伯町)の女子青年らが広島戦災児育成所を慰問
1946/2/25
広島市復興審議会が広島市役所で第1回会合。長島敏復興局長が新生広島市の都市計画案を発表。西練兵場、広島城跡は官庁・学校街とし、比治山公園から己斐にかけ幅100メートルの防火用直線道路を造り、爆心地には公園、記念施設を設計、吉島には国際飛行場など構想
1946/2/27
畑耕一氏が中国新聞に「全然新しい広島を」と題し「原子爆弾に対する記憶は史料として書冊に残す以外は一物も新広島の地上にとどめたくない」と主張
1946/2/28
学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会が、東大で第2回報告会
1946/2/--
「原子爆弾被災から1週間後には広島、長崎は他の戦災都市と何も変わらず、6カ月以内に患者も全快」-。米軍紙スタ-ズ・アンド・ストライプスが都築正男東大教授の話として伝える

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