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ヒストリー

ヒロシマの記録1946 5月


1946/5/1
「月刊中国」創刊号が発刊。中国新聞社刊
1946/5/3
広島市役所で市町内会連合会議開く。理事長、常任理事を決定
1946/5/6
広島市西警察署が完成し落成式
1946/5/13
都築正男博士ら12人の東大原子爆弾症診療班が広島入り。15日から広島逓信病院、草津病院などで診療、調査開始。対象は(1)熱傷瘢痕とこれに基づく機能障害(2)貧血、下痢、食欲不振、疲労感(3)妊娠・出産異常(4)男子不妊症の回復状況-など。連日100~150人の患者
1946/5/21
広島市寺町の西本願寺広島別院が再建、落成式
1946/5/22
広島市、広島市戦災供養会、広島県仏教連合会、広島市町会連盟が主催し、27日まで戦災死没者遺骨収容大供養週間。26日まで焼け跡で遺骨収集し27日、慈仙寺鼻の供養塔前で追善供養。中国新聞に初めて「原爆」の見出し「原爆の犠牲者供養週間」
1946/5/22
AP通信のラッセル・ブラインズ、INS通信のカッスリー・ジュンセン両記者が広島市を訪れ語る。「終戦直後から広島を3度訪れたが、着々と復興しているのに驚いている」
1946/5/22
広島市復興顧問のサテン、モンゴメリー両氏が市財源調査委員会に出席し「財政再建にはロータリークラブ、宗教団体を通じ世界に呼び掛けるのが適当」と述べる。市側は「広島市は世界の同情を集めつつある」と判断し、在米同胞の援助を得るため復興富くじも考慮
1946/5/24
広島電鉄の天満橋鉄橋が完成、1番電車が走る
1946/5/26
広島市戦災死没者供養塔が慈仙寺鼻に完成し、開眼法要
1946/5/27
電気学会中国支部が仁科芳雄博士を招き「原子爆弾について」と題し広島市で講演会
1946/5/27
広島市戦災供養会が戦災供養塔前で供養会。約3,000人が参列。西本願寺大谷光照法主も読経。集まった遺骨は2,300柱
1946/5/--
広島市内の教職員有志による広島児童文化振興会が発足
1946/5/--
都築正男博士が広島被爆者治療の中間報告。「火傷はケロイド(蟹足腫)と瘢痕凝縮の2種類に大別できる。ケロイドは苦痛が大きい。凝縮は現在が苦痛のピークでこれより快方に向かう。激しい疲労倦怠感を伴う全身的神経症全治は日数の問題」。「ケロイド」の言葉が中国新聞で使われたのは初めて
1946/5/--
広島市の人口が月6,000人のピッチで増加(5・22)
1946/5/--
広島市の相生橋東詰め広島電鉄変電所跡地で白骨死体
1946/5/--
大阪府立図書館が広島市に図書500冊を長期貸し出し
1946/5/--
長田新広島文理科大学長が大学移転問題で意向表明。(1)大学としては広島に残りたい(2)存続には地元の熱意と覚悟が必要(3)広島県賀茂郡乃美尾に疎開中の高等師範学校生徒1,600人を早急に引き取りたい
1946/5/--
原爆死没学徒と教職員の遺族らに勤労学徒援護会から特別扶助金。大学生2,100円、工専生1,800円、中学生1,500円、国民学校児童1,200円。重傷者には障害の程度により700円以下の見舞金
1946/5/--
広島市が幅100メートルから20メートルの幹線街路計画発表。平和大通りなど現道路の大半を含む
1946/5/--
広島逓信病院が原爆症の推移を発表。(1)白血球減少症はほぼ回復。17歳の中学生で白血球が異常増加のケースがあるが原因は不明(2)眼球負傷者はない(3)障害児、不妊の心配はない(4)皮膚の移植、神経の縫合など整形手術に追われている
1946/5/--
広島市復興のため呉駐留軍の英バービー・サテン少佐(医学博士、公衆衛生)、米ジョン・モンゴメリー中尉(ミシガン市地域計画顧問)が市復興顧問に就任。5月17日、市役所2階に事務所開設、市復興審議会にも出席。「爆心地を保存し、産業奨励館付近に来訪者用施設の設置」など助言
1946/5/--
広島市観光協会が広島を世界の観光都市とするため半壊建物などを保存する計画を検討
1946/5/--
広島滞在中の都築正男博士が、焦土の中から拾ったかわらに「ひとすじに十分の一秒、六千度」と詠む(5・27)
1946/5/--
米ジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏が5月末、広島を訪問し、被爆者を取材

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