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ヒストリー

ヒロシマの記録1946 7月


1946/7/1
マーシャル諸島ビキニ環礁で米陸海軍の合同原爆実験。B29から戦艦ネバダ、長門など75隻の上に史上4発目の原爆を投下。75隻中24隻が沈没または破損。3,300匹の動物中320匹が即死
1946/7/1
核実験に立ち会ったニューヨーク・タイムズのウィリアム・ローレンス記者が語る。「ビキニ実験はニューメキシコより大きかったが、長崎より小規模」
1946/7/2
木原広島市長がビキニの原爆実験で談話。「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進し、市民の犠牲がその幾百倍、幾十倍の世界人類を戦争の悲劇から救出することが出来た。ビキニ実験は広島の当時の惨状を改めて世界に訴える好機である。世界の同情は自ずから広島へ集まるであろう。平和をもたらした原子爆弾が破壊のためでなく、永遠の平和を確立し原子力が人類の幸福のために利用されることを念願する」
1946/7/4
米医学協会が広島、長崎の人的被害状況を発表。広島=死者8万人、負傷者4万人、要治療者8万500人、長崎=死者4万人、負傷者2万人、要治療者5万人
1946/7/5
原爆実験指揮官のブランデー中将が「次の実験は7月25日、海中で爆発」と発表
1946/7/20
木原広島市長がマッカーサー連合国軍最高司令官に、宗教博愛団体を通じて全世界に広島復興の義援金募集の許可願
1946/7/21
スウェーデンのテルンプラード氏らが「海中での原爆爆発実験は太平洋を火の海と化す可能性があり慎重に」と警告
1946/7/23
広島市が募集した「復興の歌」の入選作決まる。応募340点。1等は該当なし。2等は広島市の藤井啓市氏の作品。「起てよ広島夜明だ朝だ空は東空心は踊る響く槌音朝風呼んで原子砂漠に湧き立つ希望」
1946/7/25
米がビキニ環礁で原爆水中爆発実験
1946/7/26
国連原子力委員会のグロムイコ・ソ連代表が原子爆弾の即時廃棄を再び要求
1946/7/--
広島県商経会と本通商店街が共同で8月5~7の3日間、世界平和記念祭を計画
1946/7/--
広島市が8月6日を中心とする復興祭計画を発表。5日=復興広島市民大会、6日=慈仙寺鼻で仏式、神式、キリスト教の順で追弔会、7日=子供デー。町会、青年各連盟が主催し6、7日「山車および素人演芸大会」
1946/7/--
婦人代議士会が中心になり広島市に国際平和記念塔の建設計画。広島県選出の武田キヨ代議士が働きかけ
1946/7/--
広島市が在広朝鮮人の帰国輸送を完了。帰国申請者3,200余人のうち帰国したのは136人。帰国中止の理由は、原爆で「全財産喪失」「借金」など
1946/7/--
広島、長崎選出国会議員が党派を超えて両市復興に努力決める
1946/7/--
学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会が、原爆の長期的影響解明のため広島、長崎被災者の「原子弾戸籍」作成決める。広島は東大が担当し約10万人を登録(7・25)
1946/7/--
中央気象台長が台風のコースを原爆で変更する案を米軍に提出、話題に
1946/7/--
広島市が「引き取り手を待つ遺骨が4,500柱」と発表。三分の一は氏名不詳

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