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ヒストリー

ヒロシマの記録1946 8月


1946/8/1
広島県安芸郡倉橋島の蛟竜特攻基地から、橋本勤次郎元海軍少尉が部下に命じ撮影した原爆のキノコ雲の写真が中国新聞に掲載
1946/8/1
追悼記「泉第1集-みたまの前に捧ぐる」が刊行。広島興産株式会社の広島興産文化部編。追悼記として最も早い時期の作品
1946/8/1
中国新聞が募集した「ユートピア広島の建設」論文に171編が応募。1等に峠三吉氏の「一九六五年のヒロシマ」、2等に佐藤七郎氏、3等に倉田舜一氏。峠氏の作品。「前に控える世界的果樹園に覆われた島々と、後ろに横たわる高原の大酪農地帯の加工工場及び輸出港として発展」する広島を描く。実際の筆者は峠の兄、一夫氏と後に判明(8・1、8・2)
1946/8/2
中国新聞が募集した「歌謡ひろしま」に500点を超える応募。1等に広島市の山本紀代子さん。「誰がつけたかあの日から原子砂漠のまちの名もいまは涙の語り草むかしよもぎのひめばなしいくさ忘れてひめばなし」。古関裕而氏が作曲
1946/8/2
UP通信極東総支配人のマイルス・ボーン氏が中国新聞に寄稿。「日本に投下された戦史最初の原子爆弾が今次大戦終末のきっかけとなり、日米親善の長い歴史の新時代となることをアメリカ人の多数が希望」
1946/8/3
広島美術家連盟主催の平和復興美術展覧会が、広島市役所元議事堂で始まる。太田忠、大木茂氏らのほか戦災で死亡した川路商、岩岡貞美氏らも出品。7日まで
1946/8/3
戦犯公職追放で、海軍軍医を長く務めた都築正男博士が東大医学部教授失職
1946/8/4
中国新聞が広島市の家屋の推移まとめる。1944年6月30日=7万8,838戸、同7月31日=7万4,165戸、45年8月末=1万8,018戸、46年7月31日=2万7,000戸
1946/8/4
ヒギンボタム米科学者連盟会長が原子力の未来語る。「原爆攻撃こそが原子時代の幕開け。大衆は原子力を兵器としてしか考えていないが、2年もたてば原子力発電が実現し、5年もすれば原子力が巨船を動かす」
1946/8/5
広島市の慈仙寺鼻に礼拝堂が完成
1946/8/5
広島市が焼け跡整理のための広島市復興事業の起工式
1946/8/5
広島市基町の護国神社跡で「平和復興広島市民大会」。市民ら7,000人が参加、木原広島市長が「市民と一心一体となって世界平和のシンボル平和都市広島の建設に邁進しよう」とあいさつ。広島戦災児育成所の畑俊雄君が「喜びの街広島の再建に努力しましょう」。大会宣言「過去の一切を清算し相寄り相計り破壊しつくされたる市民生活の速やかなる平和的再建と地方自治の民主化を企画し燃え上がる全市民の復興意欲を結集し市民大会を開催す」
1946/8/6
広島市役所で平和復興祭短歌会
1946/8/6
広島市内の各映画館が戦災者家族に映画を無料化。7日も
1946/8/6
広島市が市内8カ所に原子爆弾症の医療無料相談所
1946/8/6
広島市と各宗教連盟広島県支部、広島市戦災供養会が主催し、慈仙寺鼻の記念礼拝堂で神式、仏式、キリスト教式、神道教派式の順で各宗派別の追悼会。数千の市民が参列。午前8時15分、全市のサイレンが「平和の祈り」。1分間の黙とう
1946/8/6
中国新聞が原爆投下1周年で各党代表者、広島県知事、広島市長の所感を掲載。楠瀬常猪広島県知事「立ち上がれ世界の広島米日合作都市恩讐越えて再建せん」。木原広島市長「誓って大平和都市瞑せよ平和の人柱」(8・6)
1946/8/6
中国新聞がコラムで「広島の市民が犠牲になったためにこの戦争が終わった。よいキッカケになったことがどれだけ貴い人命を救ったか知れない」
1946/8/7
広島市基町の護国神社跡で、中国新聞が主催し「戦災供養盆踊大会」
1946/8/7
広島平和復興祭の一環として市内横川町で、英オーストラリア軍楽隊が演奏会
1946/8/8
中国新聞が学術研究会議原子爆弾調査特別委員会の研究中間まとめを掲載
1946/8/9
杉本亀吉氏ら遺族有志が長崎市の原爆投下中心地で第1回戦災死没者慰霊祭を行う(「長崎年表」)
1946/8/21
京大医学部の原爆症診療班が広島市内で治療開始。9月6日まで
1946/8/22
極東管理委員会の英代表随員プランムリッジ、在日英大使館教育情報部レッドマンの両氏が広島市を訪問
1946/8/26
広島の被爆者として初めて、イエズス会日本地区長フーゴー・ラサール神父が米を訪れ、ニューヨーク州オウレスビル市で記者会見。当時の体験を話す。ラサール師は元上智大教授、東京のセツルメント創始者
1946/8/30
詩人栗原貞子氏の詩歌集「黒い卵」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1946/8/31
米ジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏が広島の原爆被災者を取材した「ヒロシマ」が米誌ニューヨーカー(8月31日号)に掲載。登場人物は佐々木トシ子、中村初代、ウィルヘルム・クラインゾルゲ、佐々木輝文、谷本清、藤井正和の6氏。松本滝蔵代議士が10月、中国新聞に紹介。松本氏「こんなすばらしい親日書を今まで読んだことがない。広島市民の気持ちをそのまま伝え、著者に満腔の敬意を表したい」
1946/8/--
広島県社会新興連盟が広島市似島に「広島県戦災児教育所似島学園」の建設を計画
1946/8/--
広島の茶人を中心に爆心地に「原子爆弾記念茶室」の建設計画。資材は小石から材木、かわら類に至るまで原爆で変形した物とし、被爆地点、採取地点などを記入(8・22)
1946/8/--
中国新聞が、医薬品の高騰に苦しむ被爆者の記事
1946/8/--
ビキニ原爆実験に参加したクーニー軍医大佐、ウェーク軍医大尉らが都築正男博士の案内で広島入り(8・19)
1946/8/--
広島市が西練兵場跡に母子寮建設へ
1946/8/--
広島市調査課が「原子爆弾被爆者調書」を作成へ。中国新聞見出しに初めて「被爆者」の文字
1946/8/--
広島市復興局が「1960年のヒロシマ」構想図を発表
1946/8/--
広島市の児童の体格が1940年に比べ大幅に劣る。身長は男子5.5センチ、女子3センチのマイナス。胸囲も小さくなる

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