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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 橋本邦彦さん―同級生らの消息たどる

橋本邦彦(はしもと・くにひこ)さん(80)=広島市南区

右頬や頭にガラス片。気が張り、痛み感じず

 「友達の死を無駄(むだ)にしないよう、平和のために尽(つ)くしたい」。橋本邦彦さん(80)は毎年8月、翠町(みどりまち)中(広島市南区)で営まれる慰霊(いれい)祭に参列し、気持ちを新たにします。同校の前身、第三国民学校2年で13歳だった「あの日」、原爆に同級生たちの命を奪(うば)われました。

 1945年8月6日。同級生や下級生209人は、爆心地から約1キロの雑魚場(ざこば)町(現中区)の建物疎開(そかい)作業に動員され、うち143人が亡くなりました。

 橋本さんも前日の5日、同じ場所でたまたま作業していました。先生から「明日は他のクラスに行ってもらう」と言われ、結果的に生き延びることができました。

 通常の動員先だった工場は、6日は休みでした。橋本さんは爆心地から約2・5キロの皆実町(現南区)にあった自宅にいました。ピカッ。

 突然(とつぜん)、青白い光が部屋に差(さ)し込(こ)み、とっさに畳(たたみ)の上に伏(ふ)せました。

 気付いたときには、自宅の天井(てんじょう)は壊(こわ)れ、ガラス窓が吹(ふ)き飛(と)んでいました。「お母さん!」。外に出て叫(さけ)ぶと、近所に出かけていた母の幸さん(36)に会えました。

 母は頭から血を流しながらも、橋本さんの右頬(ほほ)、頭、右足に刺(さ)さっていたガラス片を抜(ぬ)き取(と)ってくれました。気が張っていたからでしょう。痛みは感じませんでした。

 路面電車の運転士だった父の文一さん(38)は、江波線の終点(しゅうてん)付近(舟入川口町、現中区)で被爆。胸や両腕(りょううで)にやけどを負い、6日の夕方、戻(もど)って来ました。その後、やけどは治りましたが、体調を崩(くず)して満足に働けなくなりました。

 そのため、橋本さんや2歳上の姉、初音さんが働いて家族を支えました。「人に負けたくない」。橋本さんは働きながら夜間学校に通い、31歳で短大を卒業しました。

 母は79年、白血病になり、85年に76歳で亡くなりました。

 同級生に対し、生き残った負い目を感じてきた橋本さん。退職後の97年ごろから、被爆時の在籍(ざいせき)生の消息を調べたり、公民館や学校で自らの被爆体験を語ったりするようになりました。

 「今を大切にして。そして自分なりに目標を決め、それに近づけるよう頑張(がんば)って」と10代にエールを送ります。

 「被爆していないから原爆のことを語れないと思うのではなく、平和の使者として、できるだけ多くの人に伝えてほしい」と願っています。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

「広島市立第三国民学校」

学籍簿基に実態調査

 1939年、前身の広島市立第三高等小学校が開校。2年制で、6年間の義務教育を終えた生徒を受け入れていました。41年、市立第三国民学校に改称(かいしょう)。49年に現在の翠町(みどりまち)中に校名を変えました。

 翠町中によると、定員1100人の大規模校でしたが、疎開(そかい)などで、45年ごろには310人に減りました。

 広島原爆戦災誌によると、雑魚場(ざこば)町(現中区)での建物疎開に動員されていた143人と立町(同)の中国配電に出ていた9人が亡くなりました。

 翠町中では「戦災死児童学籍簿(がくせきぼ)」が事務室の戸棚(とだな)から見つかったのをきっかけに、被爆の実態を明らかにする運動を開始。生徒会を中心に、生き残った生徒や教員たちから聞き取りし、80年に冊子「空白の学籍簿」を作成しました。今も、平和学習の副読本として使われています。


◆私たち10代の感想◆

「多くの証言聞きたい」

 「話を聞いてくれて、ありがとう」と言われました。思い出したくないこともたくさんあるはずなのに語ってくれた橋本さんに、お礼を言うのは私の方だと感じました。私たちは、被爆体験を直接聞ける最後の世代です。できるだけ多くの人から証言を聞き、後世に語(かた)り継(つ)ぎます。(高1・井上奏菜)

「学び伝えていく責任」

 「被爆体験は、嫌(いや)でも伝えなくてはならない」という言葉が印象に残っています。私たちは、しっかりと受け止め、学び、周りの人に伝えていく責任があります。困難な状況(じょうきょう)にありながらも、一生懸命(いっしょうけんめい)に努力してきた橋本さんに励(はげ)まされ、私も目標に向かって努力していこう、とやる気になりました。(高2・熊谷香奈)

◆編集部より◆

 橋本さんと翠町中を訪れました。慰霊塔が建つ校庭で、放課後、テニス部の生徒が元気よく練習をしていました。

 慰霊塔は被爆翌年の1946年、犠牲になった生徒の遺族たちによって建立されました。当時は連合国軍の占領下で、原爆被害を表立って語りにくい時代。花を手向ける人はいても、慰霊塔の前で式典をすることはありませんでした。

 慰霊塔はいつしか土の中に埋もれてしまいます。体育館の工事に伴い移転、放置されたのではないかと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。教員の手で掘り起こされたのは71年でした。

 翠町中では毎夏、校内慰霊祭を開いています。80年には前身である第三国民学校の被爆の実態を調査した冊子「空白の学籍簿」を作成。熱心に平和学習に取り組んでいます。

 生き残った負い目を感じてきた橋本さん。「子どもたちの元気な声になぐさめられる」と校庭の生徒を見やります。「毎年、慰霊祭を開いてくれていることに本当に感謝しているんです」。次代を担う子どもたちに未来の平和を託します。(増田)

(2012年3月26日朝刊掲載)

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