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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 下広鳴美さん―二重被爆 苦悩の果てに 

下広鳴美(しもひろ・なるみ)さん(79)=広島市安佐北区

遺骨抱え長崎の墓へ。自殺図ったことも

 「何で2回も、あんな恐(おそ)ろしいものに遭(あ)わんといけんのんか…」。下広(旧姓渡辺)鳴美さん(79)は、うつむき加減でゆっくりと、涙(なみだ)ながらに「あの日」を語ります。

 8月6日、広島市三篠(みささ)本町(爆心地から約2キロ、現西区)で原爆に遭いました。そして、被爆死(ひばくし)した母八重(やえ)さん(38)、妹多美恵(たみえ)ちゃん(3)、曽(そう)祖母サワさん(86)の遺骨を納めに15日、姉美佐子(みさこ)さん(15)と長崎市へ。入市被爆しました。

 6日朝、広瀬国民学校高等科1年だった下広さんは学徒動員のため、広瀬元町(爆心地から約900メートル、現中区)の自宅を出て学校に向かいました。しかし、校庭に人影(ひとかげ)が見えなかったため、急いで動員先の工場(三篠本町)に行き、そこで被爆しました。建物の下敷(したじ)きになりましたが、近くにいた男性に引(ひ)っ張り出してもらいました。

 横川まで戻りましたが、猛烈(もうれつ)な火の勢いで家に帰れません。「母、妹、おばあちゃん。みんな死んじゃったんかねえ…」。あちこちで、大けが大やけどの同級生にも出会いました。大やけどの仲良しは「私の分も長生きしてね」と言い残して亡くなりました。

 前年秋、父富士一(ふじいち)さんが三菱(みつびし)重工業の長崎造船所(長崎市)から広島造船所(広島市江波町、現中区)に転勤。家族で引っ越(こ)して来ました。

 被爆当初は、父、姉の居場所も分かりませんでした。8日になって自宅近くで姉、父と再会。家の焼(や)け跡(あと)から、母、妹、曽祖母の遺骨を掘(ほ)り出しました。

 15日朝、3人の遺骨を抱(かか)え、姉と列車に乗りました。長崎駅の二つ手前の道ノ尾駅(当時長与(ながよ)村)で降ろされたため、墓のある長崎市岩瀬(いわせ)道町まで爆心地付近を通って歩きました。長崎から戻ったころ、髪が全て抜け、嘔吐(おうと)も続きました。

 「アメリカが憎(にく)い。いつまでも、この憎しみは消えません」。下広さんは言います。若いころ、交際相手の親から「被爆者だから結婚(けっこん)したらいけん」と言われ、長崎の墓前で自殺を図ったこともあります。「一つもいいことなかった」

 ほとんど語ったことのない過去。「生き残った、ということは、被爆した経験を後に伝えんといけん」。憎しみを持つことのないよう、みんなと仲良くなろう、という気持ちを持ってほしいと願います。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

長崎原爆

7万人以上 亡くなる

 広島に原爆が投下された3日後の1945年8月9日午前11時2分、長崎にも原爆が投下されました。

 この原爆は当初、北九州の小倉が第1の投下目標でした。しかし、前日の八幡地区空襲(くうしゅう)による煙(けむり)などで視界が悪く、原爆を積んだB29は、第2目標の長崎に向かいました。

 長崎市では、中心市街地を流れる中島川に架(か)かる賑(にぎわい)橋から常磐(ときわ)橋を目標地点にしていましたが、雲で見えません。切れ間から一瞬(いっしゅん)見えた工場の煙突(えんとつ)に向けて投下されました。

 原爆は、目標地点から北西約3キロの松山町171番地の上空約500メートルで爆発(ばくはつ)。長崎原爆資料館によると、同年末までに7万3884人が亡くなりました。

 国立広島原爆死没(しぼつ)者追悼(ついとう)祈念館(広島市中区)によると、所蔵する体験記計13万3045点のうち、広島、長崎両方の被爆(ひばく)状況が書かれているものが、306点あるそうです(2月末現在)。


◆私たち10代の感想◆

友の死 どう向き合う

 下広さんが涙(なみだ)を目に浮(う)かべながら話すだけで、原爆の恐(おそ)ろしさが伝わりました。同級生が亡くなる間際に言った「私の分も長生きしてね」の言葉が切なく、僕(ぼく)なら受け止めきれないと思いました。「今でもアメリカが憎(にく)い」と語る下広さん。「お互(たが)いを憎んではいけない」と、伝えていきたいです。(中2・松尾敢太郎)

生きる意味失う恐さ

 「自分も死ねば良かった」と聞いて胸が痛みました。核兵器(かくへいき)は人の命をうばうだけでなく、生きていることさえ後悔(こうかい)させてしまうものなのだと知りました。下広さんの話を忘れず、核兵器がどれだけ危険なものか、今度は私が発信していかなくてはいけないと思いました。(高1・来山祥子)

◆編集部より◆

 「あの日」のことを話そうとすると、最初、涙が出て、言葉にならなかった下広さん。それでも、「子どもたちのために」と話してくれました。

 6日の朝、「遅刻した」と思い込み、急いで動員先の工場に行ったため、助かりました。学校にいて亡くなった多くの同級生たち。「どうして、私は学校で待つ、ってせずに、自分だけが先に動員先に行って…」。その次に出た言葉は「ずるいでしょ」でした。自責の念の深さに、聞いているこちらが辛くなりました。

 「絶対にあんな無惨な死に方を若い人にさせたくない」との言葉。「アメリカが憎い。いつまでもこの憎しみは消えません」。胸の奥にしまい込んで生きてきたものが一気にあふれてきたように、下広さんは語気を強めました。

 原子力発電所についても「怖い。どういうことになるか分からん」と、使用に反対します。「子どものころは風力、水力、火力でやっていた。別に不自由な思いをせんかった。原発なんて使わんでええじゃないですか」。苦悩を抱えて生きてきたからこその言葉は、重く心に響きます。(二井)

(2012年4月10日朝刊掲載)

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