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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 徳清広子さん―はって避難 死のふちに

徳清広子(とくきよ・ひろこ)さん(82)=広島市西区

爆心から330メートル。 体には今も多くのガラス片

 徳清(旧姓中屋)広子さん(82)は、爆心地からわずか330メートルの広島富国館(現広島市中区)で被爆しました。今、同じ場所には「フコク生命ビル」が立っています。1945年8月6日以来、初めて足を踏(ふ)み入(い)れた徳清さん。「目を閉じると『あの日』を思い出す。戦争は絶対にいけない」と涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いました。

 当時15歳だった徳清さんは富国館内の広島電信局に勤務。4階で庶務(しょむ)課の女性と話している時でした。「川に石を投げた時に波紋(はもん)が広がるように、耳の中で『ワーン』と言ったきりだった」と振(ふ)り返(かえ)ります。気が付いた時、周りは「どろどろ」とした真っ暗闇(やみ)でした。顔に手を当てると「ずるっ」としました。頭から血が出ていたのです。

 どうやって外へ出たのかは覚えていません。必死で自宅のある宇品(現南区)の方へ逃(に)げようとしました。途中(とちゅう)、誰(だれ)かに足を引っ張られ、倒(たお)れて立てなくなってしまいました。「右足首にコンクリート片がささっていたからでしょう」。あおむけのままはい、白神社(現中区)辺りにたどり着きました。

 首から内臓が出たり、肉と皮がぶら下がったりした、人間とは思えないような人たちを見ました。

 やがて「黒い雨」が降り始めました。放射性物質を含(ふく)んでいるとは知らず、「天の恵(めぐ)み」と、飲んでいるうちに気絶してしまいました。

 意識が戻ったのは夕方ごろ。「お母さん、お母さん」とその場で泣いていた徳清さんに、娘(むすめ)を捜(さが)しに来たという男性が気付き、助けられました。

 自転車の荷台へ乗せてもらって帰る途中、徳清さんを捜していた母イシノさんや兄輝蔵(てるぞう)さんが見えました。母たちは、顔が血まみれの徳清さんが分かりません。「てるちゃん」。徳清さんが兄に呼(よ)び掛(か)けると「広子の声だ、広子は生きていた」と喜んでくれました。

 帰宅後、意識不明の状態がしばらく続きました。「水、水」「火が来る」と、うわごとを言っていたそうです。医者からは2、3カ月しか生きられない、と告げられました。髪(かみ)は抜(ぬ)け、歯茎(はぐき)から出血。毛穴からも血が浮(う)き出ました。母は口移しで水やおかゆを与えてくれました。

 体には、今も多くのガラス片が残っています。がんなどの病気になりましたが、4人の孫に恵まれました。「人に優しく、正しく生きて。焼け野原から立ち直った美しい広島の街を、汚さないようにしてほしい」と言います。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

広島富国館

電信局入居 死者107人

 広島富国館は、広島市袋町(現中区)に1936年に完成した地上7階、地下1階のビルです。当時、市内で最も高層(こうそう)でした。ビルには、保険会社の「富国徴兵(ちょうへい)保険」や、レストランの「精養軒(せいようけん)」が入っていました。

 45年6月、NTT西日本の前身、広島電信局が地下から地上5階までを使い始めました。空襲警報(くうしゅうけいほう)の伝達や電報、電話業務をしていたため、軍部が頑丈(がんじょう)なこのビルに移るよう要請(ようせい)したのです。原爆資料館(同)によると、原爆で電信局では117人中、107人が亡(な)くなりました。

 建物は倒(たお)れませんでしたが、地階以外は焼(や)き尽(つ)くされました。改修を経て82年に解体されるまで使われました。現在は同じ場所に「フコク生命ビル」が立っています。

 爆風(ばくふう)で切断され、大きく曲がった鉄骨(てっこつ)の梁(はり)と、屋上の飾り石は、原爆資料館に展示(てんじ)され、原爆のすさまじさを伝えています。

◆私たち10代の感想◆

想像超えた恐ろしさ

 近距離(きょり)で被爆した徳清さんが見た惨状(さんじょう)は、原爆資料館に展示(てんじ)されている人形より何百倍もひどい状況(じょうきょう)だったそうです。私の想像を超(こ)えていて、恐(おそ)ろしく感じました。そのような場面で徳清さんを助けてくれた人のように、私もどんな時でも周りの人のことを考えられるようになりたいです。(高2・井口優香)

私たちも次の世代へ

 徳清さんは、皮膚(ひふ)と肉が垂れ下がったり、手がもげたりした人を見ました。人間の姿をとどめていなかったそうです。爆心地近くの悲惨(ひさん)な光景が目に浮(う)かびました。つらい思いをしながらも、気丈(きじょう)に話してくれました。このような経験を誰(だれ)もしないよう、私たちが次の世代へと語り継ぎたいです。(高1・坂本真子)

◆編集部より◆

 「胸張って 生きてきたよと 亡き母に」。徳清さんが、1958年にがんで亡くなった母イシノさんを思い、先日、詠んだ句です。「あの日」、爆心330メートルで被爆した徳清さんを捜し歩き、必死で看病をしてくれた母…。徳清さんが母を思い出す場所の一つが、通りがかった男性に助けられた白神社です。今も、平和大通り沿いにあります。白神社の近くに勤めていた母は、戦時中、徳清さんの無事をいつも拝んでくれていたそうです。「原爆で助かったのは母のおかげ」と徳清さん。あの日から67年―。満開の桜が咲く白神社で、静かに手を合わせました。(増田)

(2012年4月23日朝刊掲載)

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