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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 石田英雄さん―差別を恐れ 被爆伏せる

石田英雄(81)さん=広島市中区

妊娠機に妻に告白。手帳取得は51年後

 被爆による差別や影響(えいきょう)を恐れてきた石田英雄さん(81)。結婚(けっこん)する時も、原爆に遭(あ)ったことを伏(ふ)せました。被爆者健康手帳を取得したのは、51年後の1996年。しかし今は「多くの若い人が殺され、生き残った人も苦しんでいることを伝えてほしい」と訴(うった)えます。

 山陽中2年だったあの日、同級生約40人と広島県府中町の東洋工業(現マツダ)近くにあった、海軍工廠(こうしょう)関連の工場(爆心地から約4・3キロ)に動員されていました。

 作業がなく、府中川の川岸にいたところ、米軍機B29が「キーッ」とエンジン全開で飛ぶ音がしました。その直後、比治山を越(こ)えた広島市中心部に白い光が走り、比治山は航空母艦(ぼかん)のように浮き上がって見えたのです。

 光の玉が波紋(はもん)のように広がり、石田さんの上に来た途端(とたん)、吹(ふ)き倒されました。けがはありませんでしたが、大州町(現南区)の工場で働いていた父正雄さんを捜(さが)しに、帰宅する同級生4人と市内へ向かいました。

 工場に父の姿はありません。市街地に向けて歩いていると、顔や腕を大やけどし、皮がずるむけになって歩いてくる人たちとすれ違いました。荒神(こうじん)橋(同)の真ん中に立つと、街は火の海でした。橋を渡って猿猴(えんこう)川沿いをしばらく歩いた後、向洋駅まで行き、疎開先(そかいさき)の母朝子さんの実家(広島県中野村、現安芸区)まで線路を歩いて戻りました。

 工場で背中一面にガラスが刺さった父は、病院で治療(ちりょう)を受け、6日夜に帰宅しました。

 20代後半になった石田さん。見合いの話があると、母は、相手の女性が被爆者かどうか調べたそうです。しかし石田さんは、自身の被爆については明かしませんでした。「仲間内で『被爆者健康手帳を持っていたら縁(えん)遠くなる』と話していたから」と苦笑します。

 60年に結婚した妻には、妊娠(にんしん)を機に話しました。妻は何も言いませんでした。子ども2人、孫2人は大病なく過ごしています。

 手帳を取ろうとしたのは75年ごろ。中学生になった長男に原爆の話をしようとしたところ、「手帳持っとらんのに、原爆のことをあれこれ言うなんて」と指摘(してき)されたのがきっかけでした。

 しかし申請(しんせい)に必要な証言者2人が「14歳以下は駄目(だめ)」と市から言われたそうです。孫が中学生になるころ、再度申請したら「入市被爆」と認められました。

 2年半前に仕事を辞めてから、証言活動を本格的に始めました。「核兵器(かくへいき)が使われたら地球はおしまい。若い人にこそ、反核の思いを受(う)け継(つ)いでほしい」と力を込(こ)めます。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

入市被爆

爆心から2キロ圏対象

 原爆が投下された後、15日目(広島の場合、8月20日)までに、爆心地からおおむね2キロ以内に入った人が「入市被爆者」とされています。これは、被爆者援護(えんご)法という法律で定められています。

 広島で爆心地から2キロとは、北は三篠本町2丁目(現西区)、南は千田町3丁目(現中区)、東は猿猴橋(えんこうばし)町(現南区)、西は福島町(現西区)辺りまでです。

 このほか、原爆が投下された時に当時の広島市内などにいた人(直接被爆)や、救護・看護をした人、これらの女性のおなかにいた胎児(たいじ)も、被爆者です。

 対象者は、申請により被爆者健康手帳の交付を受けることで被爆者とされます。

 2011年3月末で広島市が手帳を発行している6万8886人のうち、入市被爆者は1万6753人(24・3%)。直接被爆者は4万1990人(61・0%)です。全国では、広島、長崎の被爆者は21万9410人います。

◆私たち10代の感想◆

人減った写真悲しい

 入学式の集合写真7枚に写っていた生徒が、原爆投下後の卒業時には1枚分に収まるほど減った写真を見て悲しくなりました。

 「戦争や原爆で亡くなった人も苦しいが、遺族も苦しむ。そんな人をつくってはいけない」と話す石田さん。被爆者だった亡き祖父母の思いも含(ふく)めて、伝えていきたいです。(高2・田中壮卓)

心まで奪う戦争・原爆

 「死体を見ても何とも思わなかった」と聞き、戦争や原爆は、人としての心まで奪(うば)ってしまう、と恐怖(きょうふ)を感じました。心に与(あた)える傷も深いのです。

 「被爆体験を聴(き)く活動を続けて、二度と戦争を起こさないでほしい」という石田さん。その思いを受け止め、友だちなど身近な人にも広げていきたいです。(高1・坂本真子)

◆編集部より◆

 2年半前に仕事を辞めてから、証言活動に加えて、原爆に関する調査をしている石田さん。その中の一つに、山陽中1年の被爆調査があります。「あの日」、1年生は街中の建物疎開に動員され、ほとんどが亡くなりました。入学時に7枚分あった集合写真が、戦後は1枚分に収まるほどになっていた、というのは下級生のことです。

 「お盆に、広島市内でお墓参りする機会があったら墓石を見てほしい」と石田さん。1945年8月6日に亡くなった人が大勢います。亡くなった1人1人に、人生があり家族がいたことを実感できるでしょう。(二井)

(2012年6月12日朝刊掲載)

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