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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 大野哲彦さん―一緒にいた級友どこへ

大野哲彦(おおの・てつひこ)さん(79)=広島市南区

孫に恵まれ幸せな人生。再会願い今でも涙

 三篠国民学校(現広島市西区、三篠小)高等科1年で12歳だった大野哲彦さん(79)は、あの日、建物疎開(そかい)の作業に向かうため、同級生と2列になって、十日市町(現中区)辺りを歩いていました。爆心(ばくしん)地から約700メートルの地点でした。「ピカッ」。突然、光に襲(おそ)われ、気絶しました。

 気付いた時、晴天だった空は一変。周囲は真っ暗でした。偶然、手に当たった広島電鉄のレールを頼(たよ)りに、あちこちに見える炎(ほのお)を避けながら、必死で逃(に)げました。

 横川町(現西区)にあった自宅へ戻ると、家は燃えていました。近所の人に言われて初めて、持っていた防空頭巾(ずきん)や水筒(すいとう)がなくなり、服はぼろぼろで裸(はだか)のようになっていることに気付きました。後頭部と左足、左腕にはやけどを負っていました。

 避難場所にしていた近くの防空壕(ごう)で、家族と再会することができました。自宅にいた母と弟は助かりましたが、10歳ほど離(はな)れた妹修代(のぶよ)さんは、家の下敷(したじ)きになって亡くなっていました。印刷工場に出勤していた父も無事で、1、2日して戻ってきました。

 大野さんは、急性障害に襲われました。被爆当日の夕方ごろから嘔吐(おうと)が始まりました。歯茎(はぐき)から出血し、鼻血も出ました。8月末には髪の毛が全て抜け、高熱とひどい下痢(げり)にもなりました。

 大野さんは、防空壕やそばにあった小屋で1週間ぐらい過ごしました。そこでは「水をくれ」という大やけどの被爆者と、「死んでしまうからやったらいけん」という人の声が合唱のように響(ひび)いていました。

 被爆から数日後、炊(た)き出(だ)しのおむすびを食べました。久しぶりの白米の味は、今でも忘れられないそうです。

 柱やトタンを集め、自宅の近くに小屋を建てて生活し、秋になってから、宇品町(現南区)の父の実家に移りました。

 あの時、一緒(いっしょ)にいた同級生たちの消息が分からないまま過ごしてきました。みんなの顔を思い出すと、今でも涙(なみだ)がこみ上げてきます。「1人でも生きとってくれたらなあ、と思うんです。会って話をしてみたい」と、再会を願っています。

 71歳までタクシー運転手として働き、5人の孫にも恵(めぐ)まれ、「幸せな人生を過ごせている」と話します。

 「人を殺し合うのが戦争。絶対にしてはいけない。今の平和を守ってほしい」。そう子どもたちに訴(うった)えます。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

急性障害

大量の放射線で発症

 短い期間に、一定量以上の強い放射線を浴びると急性障害が起きます。広島や長崎で原爆に遭(あ)った人たちは、直後から嘔吐(おうと)や下痢(げり)、発熱、脱毛(だつもう)、出血、意識障害などの症状(しょうじょう)に襲(おそ)われました。

 その原因について、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)の神谷研二所長は「大量の放射線が、血液を造る骨髄(こつずい)、胃や腸など消化器系の細胞(さいぼう)を破壊(はかい)した」と説明します。

 放射線は、急性障害だけではなく、がんや白内障(はくないしょう)など、長期にわたって被爆者の健康に影響(えいきょう)を与えています。これを「後障害」と呼んでいます。

 原爆以外では、1954年、米国が南太平洋のビキニ環礁(かんしょう)で行った水爆(すいばく)実験で、遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が被曝(ひばく)。乗組員に急性障害が出て、半年後に1人が亡くなりました。99年の茨城県東海村の臨界事故では、作業員2人が急性障害で死亡しました。

 福島第1原発事故では、放射線量が低いため急性障害は起きていないそうです。

◆私たち10代の感想◆

悲劇を繰り返さない

 わずか700メートルの所で被爆した大野さんの話を聞いていると、私自身がその場にいるかのように情景が浮(う)かんできました。軍人が、被爆死した人を集めて焼いていたという悲惨(ひさん)な事実にも衝撃(しょうげき)を受けました。広島の高校生として、原爆の悲劇を二度と繰(く)り返(かえ)さないよう、行動したいです。(高2・城本ありさ)

戦争 恐ろしさ知ろう

 被爆した後、髪(かみ)の毛が全て抜(ぬ)け、歯茎(はぐき)からも血が出たと聞き、とても驚(おどろ)きました。私たちの世代が大人になっても、絶対に戦争なんかやりたくないです。私はもっと、戦争や原爆のことを学びたいと思います。同世代の人たちにも、戦争の恐(おそ)ろしさを知ってもらいたいです。(中2・重田奈穂)

◆編集部より◆

 戦争の犠牲になった学徒たちの霊を慰める「動員学徒慰霊塔」。大野さんは、原爆ドーム(広島市中区)の南にあるこの塔を見ると、一緒に被爆した同級生を思い、涙がこみ上げます。

 三篠小(西区)の前身、三篠国民学校高等科1年だった大野さんは、建物疎開の作業に向かう途中で被爆しました。

 大野さんは、被爆直後の同級生の様子について記憶がありません。被爆後、一緒に作業に出たある友人の元を訪ねると、原爆で亡くなっていました。宇品町(現南区)に転居したこともあり、大野さんが把握しているのはそれだけです。

 同級生の消息が知りたいという大野さんは「仲の良かったクラスメートに再会して、話がしたい」と願っています。何か手掛かりがあれば、編集部まで情報をお寄せ下さい。(増田)

(2012年6月25日朝刊掲載)

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