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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 西岡誠吾さん―疎開作業休み生き残る

西岡誠吾(にしおか・せいご)さん(80)=廿日市市

戦争の愚かさ語る。亡き同級生の分まで

 「熱かったろう、痛かったろう。家族に会いたかっただろう」。あの日、県立広島工業学校(現県立広島工業高)の1年生だった西岡誠吾さん(80)=廿日市市=は、亡き同級生を思い、広島市南区出汐にある母校の慰霊碑(いれいひ)に語り掛けます。

 1945年8月6日、中島新町(現中区)に建物疎開(そかい)作業に出ていた同級生192人は全滅(ぜんめつ)しました。爆心地から約600メートルでした。

 西岡さんは、たまたま体調が悪く、建物疎開の作業を休まざるを得ませんでした。当時は爆心地から約2キロの千田町(同)にあった学校で軽作業をするため、西白島町(同)の自宅から登校。直後に被爆しました。

 学校の門をくぐって1、2分たった時でした。強烈(きょうれつ)な光を浴び、爆風で吹き飛ばされました。崩(くず)れた建物の下敷(したじ)きになりましたが、気付いてくれた大人に助けてもらいました。顔の左半分と左手を火傷。左足にも5センチぐらいの切り傷ができ、なかなか出血が止まりませんでした。

 救護施設を転々とした西岡さんは、坂村(現広島県坂町)の国民学校にいた8月15日、やっと歩けるようになりました。坂村を後にし、父の実家があった生口島(現尾道市)へ列車と船で向かいました。途中(とちゅう)、自宅の近くに住んでいた人と偶然出会い、父母と兄2人が無事だと聞きました。

 療養(りょうよう)後の45年12月に復学。「おお、生きておったか。よかった、よかった。作業に出ていた同級生はみんな死んだ」と担任の先生から知らされました。西岡さんは、授業が手に付きませんでした。「みんなに会えるのを楽しみにしていたのに…」

 その日の放課後、同級生たちが建物疎開作業をしていた現場まで行きました。「伊藤、伊藤!」。何度も親友の名前を叫(さけ)びました。

 生き残った負い目を感じながら生きてきた西岡さん。8月6日に母校で開かれる原爆慰霊式に出席できるようになったのは、三十三回忌からでした。

 ことしの原爆の日も午前4時から、身元が分からない遺骨が納められている、平和記念公園(中区)にある原爆供養塔を訪れます。そこに同級生が眠(ねむ)っているかもしれないからです。その後で、母校の慰霊式へ参列します。

 「わしは元気でおると、同級生たちに声を掛けたい。亡くなった友達の分まで生きて、戦争の愚(おろ)かさと核(かく)の恐(おそ)ろしさを後世に伝えたていきたい」。そう力を込めます。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

県立広島工業学校

1年生は192人犠牲に

 県立広島工業学校は、広島市南区出汐にある県立広島工業高の前身です。被爆当時は千田町(現中区)にありました。今の県立図書館がある場所です。

 学校の80年史によると、生徒と教職員計214人が原爆の犠牲(ぎせい)になりました。中でも、1年生192人と引率の教諭(きょうゆ)3人は、爆心地から約600メートル、現在の中区中島町に建物疎開(そかい)の作業に出ていて亡くなりました。後日の現地調査でも、遺体が確認できた生徒は数人にすぎなかったそうです。

 当時の学校の正門脇(わき)に、木製の慰霊塔が建てられました。学校が現在地に移転した後、1962年度に新たに慰霊碑ができました。原爆などで亡くなった生徒たちを鎮魂するための碑です。87年度には、校内に原爆犠牲者の名前を刻んだ追悼(ついとう)碑と、建物疎開の現場近くに「原爆遭難の碑」が新たに建てられました。

◆私たち10代の感想◆

思いを知る努力大切

 生き残った被爆者としての葛藤(かっとう)を感じました。西岡さんが描いた被爆直後の惨状(さんじょう)の絵を見せてもらいました。絵の中から「描いてくれるな」と叫(さけ)びが聞こえたそうです。被爆者の方の気持ちを完全に理解することはできないかもしれません。しかし、思いを知ろうとし、後世に伝えようとする過程こそ大切なものだと感じます。(高1・木村友美)

核の悲しみ限りない

 原爆投下後の広島で交わされたあいさつは、「生きとったか」だったそうです。戦争では人を殺すのが当たり前になります。西岡さんに「戦争の愚(おろ)かさと核(かく)の恐(おそ)ろしさを後世に伝えてほしい」と言われました。核によって生まれた悲しみは限りありません。だからこそ、西岡さんの願いを忘(わす)れないようにしたいです。(高1・寺西紗綾)

◆編集部より◆

 西岡誠吾さんが、建物疎開作業の現場で叫んだのは、親友の伊藤稜夫(いづお)さん=当時(14)=の名前です。西岡さんと伊藤さんは、県立広島工業学校の同級生。一緒にハーモニカを吹いたり、「春の小川」を歌ったりと、仲の良い二人でした。

 二人の仲を切り裂いた原爆で、伊藤さんの遺骨は分からないままになっていました。しかし、身元不明の遺骨が収めてある原爆供養塔(広島市中区)の骨つぼの開封調査で、遺族が判明。1986年、伊藤さんの遺骨は、被爆から41年ぶりに遺族の元へ戻りました。伊藤さんは今、父親の故郷、長野県の墓で、安らかに眠っているそうです。西岡さんは、元気なうちに長野の墓を訪ね、供養したいと願っています。

 西岡さんは、当時12、13歳だった丸刈りの同級生の顔をはっきりと覚えているそうです。桜咲く入学式での緊張した面持ち、暑さと空腹をこらえての建物疎開作業・・・。わずか4カ月間の学校生活でしたが、思い出を忘れることなく、心に収めているそうです。(増田)

(2012年7月23日朝刊掲載)

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