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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 三好妙子さん―動けぬ母と最期の別れ

三好妙子(みよし・たえこ)さん(76)=広島県府中町

「被爆者同士 分かり合える」。 見合い結婚

 「お母さーん!」。抱(だ)きかかえられて振(ふ)り返(かえ)ると、母ヒサノさんは、血だらけになった手を振ってくれました。それが最期の別れでした。

 「あの時」、8歳(さい)だった三好妙子さんは、爆心地から約1・2キロの東千田町(現広島市中区)の自宅の廊下(ろうか)に、母、祖母ツネさんと座っていました。

 「大きな火の玉が転(ころ)がり込(こ)んできた」途端(とたん)、吹(ふ)き飛(と)ばされ、気づくと土の上にいました。皆ガラスが体に刺(さ)さって血だらけ。母の喉(のど)には大きな穴が開いていました。

 母は何か言おうとしても、喉の穴から空気が抜(ぬ)けて言葉になりません。「内臓ですかね、血と一緒(いっしょ)にぼこぼこ出て、どうにもならなくなりました」

 そのうち火が回ってきました。知らない男の人が「ここにいたら焼け死ぬ」と三好さんを抱き上げ、200メートルほど先の電車通りまで出てくれました。「母と別れたくなかったけど…。それきりでした」。遺骨は今も見つかっていません。祖母は広島県海田町の寺に収容されましたが、約1年後に原因不明の高熱で亡くなりました。

 三好さんは、トラックで太田川らしき河川敷(かせんじき)に連れて行かれて野宿しました。翌日、再会した近所の女学生と、三好さんの両親の実家がある畑賀村(現安芸区)に行きました。「トラックに乗せてもらったんですかね。覚えてないんです」と振り返ります。

 収容所の畑賀国民学校(現畑賀小)では教室の床(ゆか)に寝(ね)かされました。間もなく意識を失い、目覚めた時には終戦を迎(むか)えていました。

 教室では、夜になると「痛い」「苦しい」「死にたい」と声がします。「月明かりで、みんなお化けみたいに見えて。寂(さび)しくて恐(おそ)ろしくて…」。朝になると、約半数が亡くなっていたといいます。

 迎えに来た叔母(おば)の住む江田島(えたじま)(現江田島市)で9月から療養(りょうよう)。翌夏に父桑市(くわいち)さんが復員し、畑賀の親戚(しんせき)宅の離れに移りました。

 「被爆者からは変な子どもが生まれる」。そんなうわさがあり、結婚しないと決めていた三好さんに見合い話が持ち上がりました。相手も被爆者と知り「被爆者同士なら分かり合えるから」と夫宙三さん(81)と結婚しました。

 夫は、学徒動員中に霞(かすみ)町(現南区)で被爆。両親と兄を亡くして孤児(こじ)になり、広島県大和町(現三原市)の叔父(おじ)に引き取られました。

 「原爆がなかったら、普通(ふつう)の生活ができたのに」。だからこそ、若い人に「平和に過ごせるよう、努力してほしい」と願うのです。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

原爆孤児

飢えや犯罪 悲劇生む

 原爆で両親を亡くした子どもを「原爆孤児(こじ)」といいます。広島だけで4千~5千人いた、とされていますが、はっきりしていません。父か母が生きていても、生活が苦しくて路上生活をしていた子どもも人数に入っていたようです。

 原爆投下の2日後、比治山国民学校(現比治山小、広島市南区)に孤児(当時は迷子)収容所が設置されました。約200人に達しましたが、被爆(ひばく)で亡くなった子どもも多くいました。

 1945年12月、五日市町(現佐伯区)に広島戦災児育成所が開設。翌年9月、似島(現南区)に広島県戦災児教育所似島学園ができるなど、少しずつ施設(しせつ)ができて孤児を収容しました。また、国内外の人が「精神養子」として、現金や品物を贈(おく)ったり手紙をやりとりしたりする活動も出てきました。

 しかし、住む場所がなく、冬の寒さと飢(う)えで凍死(とうし)したり、犯罪に絡んで命を落としたりする子どももいました。原爆は、罪のない子どもの人生を大きく変えたのです。

<原爆孤児等収容所>
収容所名               開所(収容開始)  時期  収容人数(人)
広島新生学園                 1945年  10月    75
広島戦災児育成所                45年  12月    77
広島県戦災児教育所似島学園         46年   9月   185
光の園摂理の家                  47年   8月    83
広島修道院                     48年   4月    98
六方学園                      49年   1月    96

「新修広島市史」から(収容人数は時期により異なる)

◆私たち10代の感想◆

各国にもっと訴えを

 三好さんは原爆で大切な家族や家を失いました。体には今もガラスが刺(さ)さり、後遺症(こういしょう)に苦しんでいます。

 世界にはまだ核兵器(かくへいき)がたくさんあります。多くの慰霊碑(いれいひ)を回ったり、被爆体験を聴(き)いたりして、8月6日の平和記念式典に来る各国の代表者に、原爆の悲惨(ひさん)さをもっと理解してもらうべきです。(中2・岩田壮)

争い起こさぬように

 これからの時代を生きる人たちは争いを起こさないよう努めてほしい、との言葉が印象深かったです。日本と中国、韓国(かんこく)との間で起きている問題は早急に解決してほしいです。

 また、戦時中とは違(ちが)って命が脅(おびや)かされない私たちは幸せだ、と実感しました。多くの人が被爆体験を聴(き)き、それを知らなくてはなりません。(中3・高矢麗瑚)

◆編集部より◆

 被爆当時、3年生だった三好さん。実は8月2日まで母、祖母と、江田島に住んでいた叔母の家に疎開していました。しかし、7月下旬に能美島近くに停泊していた軍艦が空襲を受け、泳いで逃げようとする兵隊が次々に殺されて海に浮かび、それを島の人たちが海岸で荼毘に付すのを目の当たりにしました。三好さんは恐ろしくなり、「広島に帰ろう」とせがみ、8月3日に東千田町の家に3人で戻ってきたのです。「私が帰ろう、って言わなければ…」今も悔やみます。

 窓に近かった左上半身に無数のガラス片が刺さりました。左目のそば、左手首、首もと、心臓近くに痕があるだけでなく、今も首の近くに残っていて、時々痛みます。「これが唯一の、東千田の家で残っているものだから、『宝物』にしようと思って、もう出してもらわないの」と三好さん。母の遺骨が見つからず、遺品もない中、たった一つ残されたものなのです。

 原爆孤児の夫は、今も原爆の話は一切しません。2人の娘にも詳しく話したことがありません。「被爆2世というのを気にするようになったらかわいそうだから」と娘を気遣います。「下の娘は小さい頃、弱かったから、生まなければよかった、と思ったこともあった」とも。そして、今、自身が生きていることを「多分、死にたくなかった母が、私を生かしてくれているのかな」と話す三好さん。母を思い、娘を思う。愛情の深さを感じました。(二井)

(2012年9月11日朝刊掲載)

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