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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 木村英雄さん 正恵さん夫妻―福島の孫へ 亡母の無念

木村英雄(きむら・ひでお)さん(77) 正恵(まさえ)さん(73)夫妻=広島市安佐南区

原発事故経て初めて語る。平和な世を願い

 毎年8月6日、木村(旧姓広本)正恵さん(73)と夫の英雄さん(77)は、広島市中区の平和記念公園を訪れます。ここで、原爆に家族を奪(うば)われた二人。「戦争で犠牲(ぎせい)になるのは罪のない子どもや市民。とにかく平和な世界になってほしい」と願います。

 正恵さんは被爆当時6歳。父は1944年に戦死し、母と父方の祖父が、爆心地に近い材木町(現中区中島町)で、理髪(りはつ)店を営んでいました。

 正恵さんは4歳の時に、祇園町(現安佐南区)にある母の実家へ疎開(そかい)。あの日は、爆心地から約4・1キロの長束国民学校(現長束小)の校庭で被爆し、爆風(ばくふう)で校舎の窓ガラスが割れて散乱したのを覚えています。

 前日の5日は、母、祖父、2歳の妹の3人が祇園町を訪れ、一緒(いっしょ)に晩ご飯を食べました。最後の家族だんらんになりました。3人は翌朝、材木町で原爆の犠牲になったのです。

 「おじいちゃん、お母さん、妹よ」。被爆の2日後、母方の祖父母から、箱に入った骨を見せられました。妹の体は完全に焼けておらず、兵隊さんに焼いてもらったそうです。「母が身をていして、妹を必死で守ろうとしたのではないか」と正恵さんは思っています。

 被爆後、母の実家で育てられた正恵さん。娘一人を残して死ななければならなかった母の気持ちを思うと、涙(なみだ)が止まりません。

 英雄さんは、10歳の時、中広町(現西区)の自宅近くにあった、三篠国民学校(現三篠小)の仮校舎で被爆しました。爆心地から約1・4キロ。仮校舎の外で授業が始まるのを待っていた時、飛行機に気付きました。突然(とつぜん)、強い光を感じ、溝(みぞ)に逃げ込みました。「ドドドーン」。爆音(ばくおん)が響(ひび)いたのです。

 塀(へい)の陰(かげ)にいたため、やけどはせず、けがもしませんでした。燃えている自宅のそばで、母と長姉、3番目の姉の3人と会い、山へ逃(に)げました。その後、本川国民学校(現本川小、中区)に避難(ひなん)。亡くなった人の火葬(かそう)を手伝いました。

 2番目の姉は、旧広島県産業奨励(しょうれい)館(現原爆ドーム)で働いていて被爆。遺体は見つかりませんでした。ドームの土を持ち帰り、遺骨の代わりにしています。

 英雄さんと正恵さんは、62年に職場結婚(けっこん)しました。孫の1人は現在、福島大(福島市)で学んでいます。福島第1原発事故の後、被爆体験を初めて聞(き)かせました。

 英雄さんは「原発は核兵器に転用できる恐(おそ)ろしいもの。原発に代わるエネルギーが必要だ」。正恵さんは「ヒロシマを決して繰(く)り返(かえ)さないよう、若い世代がしっかり考えてほしい」と願っています。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

材木町

犠牲者を悼んで石碑

 材木町は、現在の広島市中区中島町。平和記念公園の原爆慰霊碑(いれいひ)から原爆資料館、噴水の南辺りまでの一帯です。1965年に今の住居表示になるまで、名前は残っていました。

 この町名は、材木商が多かったことに由来すると言われています。ただ、広島市によると、昭和初期ごろまでには、ほとんどなくなっていたそうです。

 巨大(きょだい)な山門で知られた誓願寺、米、野菜、精肉、うどん、菓子(かし)といった商店、民家などが軒(のき)を連ねるにぎやかな町でした。木村正恵さんの母と祖父が営んでいた理髪(りはつ)店も、被爆前に隣町の中島新町から疎開(そかい)し、この材木町にありました。しかし原爆で、町は壊滅(かいめつ)的な被害を受けました。

 遠方に行くなどしてわずかに生き残っていた住民たちも、平和記念公園の建設に伴い、50年代初めまでに移転を余儀なくされました。

 かつての町民が57年、町に思いをはせ、犠牲(ぎせい)者の冥福(めいふく)を祈って「材木町跡」と刻んだ石碑(せきひ)を建てました。今も公園内にひっそりとたたずんでいます。

◆私たち10代の感想◆

涙の姿 忘れられない

 被爆体験を話している途中(とちゅう)、原爆で亡くなった母を思い、涙(なみだ)を流していた正恵さんの姿が忘れられません。幼くして家族を亡くすことは、とても大きな悲しみであり、心細かったはずです。いつも親がそばにいて、皆で楽しく食卓(しょくたく)を囲めるという、当たり前の暮らしに感謝したいです。(高1・村越里紗)

10歳での体験に衝撃

 10歳だった英雄さんが遺体を焼いた、と初めて聞(き)き、子どもにそんなことをさせるのかと衝撃(しょうげき)を受けました。二人とも「原爆の事実を風化させないでほしい」との思いで、被爆体験を語ってくれました。そのことに感謝し、聞いたことを同世代の友達に伝えていくことが使命だと感じました。(高2・秋山順一)

◆編集部より◆

 「死ぬために帰ったようなものです」。木村正恵さんは言います。正恵さんの母と妹は8月6日早朝、正恵さんが疎開していた祗園町(現広島市安佐南区)から、爆心近くの自宅に戻りました。理髪店を営んでいた母は、仕事のために帰宅しなければならなかったのです。

 そして迎えた午前8時15分―。一瞬にして母や妹の命は奪われました。焼け跡には、店の灰皿が残されていました。正恵さんは被爆から67年たった今も、家族の形見として大事にしています。

 今年8月下旬、正恵さんは、母と妹がたどった祗園町から材木町(現中区)までの道を初めて歩きました。「自宅に戻るのがもう少し遅ければ助かったかもしれない」。運命の残酷さに涙があふれました。母たちが亡くなった現在の平和記念公園で、水をまきました。

  家族を失った無念さや自らの被爆体験を、同級生たちと手記にまとめた正恵さん。福島大(福島市)に通う孫息子に託し、福島の大学生に読んでもらおうと思っています。(増田)

(2012年9月24日朝刊掲載)

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