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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 中本雅子さん―救えなかった命 悔やむ

中本雅子(なかもと・まさこ)さん(89)=広島市西区

運び続けた遺体。医師への決意芽生える

 中本(旧姓西本)雅子さん(89)が勤めていた陸軍被服支廠(りくぐんひふくししょう)(広島市出汐(でしお)町、現南区)は、被爆直後から臨時救護所となりました。次々なだれ込んでくる負傷者。薬も何もなく、バタバタと死んでいく人たちを前に、どうすることもできませんでした。この時の悔(く)いが「いざというときに役に立つ人になりたい」との強い思いとなり、医師を目指したのです。

 22歳だった中本さんは、あの日、爆心地の南東約2・7キロの陸軍被服支廠にいました。今も残るれんが造りの建物の一番北にある棟(むね)の2階で事務をしていました。部屋に閃光(せんこう)が走り、机の下に隠(かく)れた瞬間(しゅんかん)、ドーンというすごい音がしたのです。

 約600メートル離(はな)れた所にあるガスタンクに爆弾(ばくだん)が落ちた、と思った中本さん。救護係だったため、中庭の医務室に駆(か)け付(つ)けました。ところが、木造の医務室は吹(ふ)き飛(と)ばされ、医療器具が散乱していました。

 けがをした人が次々にやってきました。陸軍軍医と6人の看護師で治療(ちりょう)をし、中本さんも手伝いました。しかし消毒薬と塗(ぬ)り薬程度しかありません。それもすぐに使い果たしてしまいました。

 それでも2階のコンクリートの床に軍用毛布を敷(し)き、3人ずつ寝(ね)かせました。「助けて」「お母さん」と叫(さけ)んでいる人たちの中を、中本さんら女性が2人組で一周見回ると、3人のうち2人が息絶えている状態でした。

 急ごしらえの担架(たんか)に遺体を載せ、被服支廠の南側にあったハス畑に運びました。戻(もど)ると、また別の人が亡くなっていました。

 「1日に10往復以上した。全部で数百人いたかねえ。でも軍の命令で、覚えても話してもいけなかった」と振(ふ)り返(かえ)ります。中本さん自身も被爆3日目、喉(のど)が痛くなり、歯茎(はぐき)から出血。当分続きました。

 被服支廠での体験から、大量に出血している人を助けたい、と外科医を目指した中本さん。まず苦手だった数学を勉強するために福岡女子専門学校(現福岡女子大)数学科で3年間学び、その後、広島大に入学。1956年3月に医学部を卒業しました。33歳でした。当時、外科は男性ばかりだったため、産婦人科を選びました。

 62年、福島病院(現福島生協病院、広島市西区)内に産婦人科を開設。これまでに取り上げた赤ちゃんは2千人を数えます。

 若者、特に女性に「考える人になって」と願います。「考えないと次の世代は幸せになれない。日本がどうあるべきか、しっかり考えてほしい」と訴えます。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

旧陸軍被服支廠

頑丈な造り 救護所に

 赤れんがの景観が、約500メートル続く旧陸軍被服支廠(りくぐんひふくししょう)。広島市南区出汐(でしお)2丁目、県立広島工業高の西側と南側に4棟(とう)がL字形に並んでいます。「日本一長いれんがの家並み」といわれています。

 完成は1913年8月。赤れんがが特徴(とくちょう)の東京駅開業(かいぎょう)より1年早くできました。4棟は、鉄筋で強化されたコンクリートの外側に、れんがが張られている頑丈(がんじょう)な構造です。兵隊の服や靴(くつ)、帽子(ぼうし)などを保管する倉庫として使われました。北東側には、服や靴などの製造工場もありました。

 爆心地から約2・7キロ離(はな)れていて、原爆で倒(たお)れたり、火事になったりすることはありませんでした。そのため、被爆(ひばく)直後から臨時救護所になりました。

 戦後は、46年から約7年間、広島高等師範(しはん)学校(49年から広島大教育学部)の校舎になったほか、広島大の学生寮(りょう)や運送会社の倉庫などとして使われました。現在、県が管理していますが、耐震(たいしん)補強工事をする必要があるため、97年以降は使われないまま、活用策は決まっていません。

◆私たち10代の感想◆

世界に伝えなければ

 中本さんは私たちに「若い人は、もっと放射線について学び、自国が今後どうあるべきか考えてほしい」と言いました。救護係として、被爆者の惨状(さんじょう)を目にした人の心からのメッセージでした。

 原爆の脅威(きょうい)を伝えようとする思いを受け止め、私たちが恐(おそ)ろしさを世界の人に伝えなければと思いました。(中3・了戒友梨)

社会をもっと考える

 「考える人になってほしい」との中本さんの言葉に恥(は)ずかしくなりました。今の社会や将来について、深く考えたことがなかったからです。中本さんが若い頃(ころ)、戦争に疑問を持たなかったのは、考えていなかったから、と言います。これからは、もっとニュースに関心を持ち、友達と話し合っていきたいです。(高1・吉本芽生)

◆編集部より◆

 22歳で医師への道を選んだ中本さん。10年以上かけて夢を実現しました。その後も夫と地域医療に奔走。福島生協病院は今、総合病院として地域に根付いています。中本さんは、今もピアノのレッスンに通い、携帯のCメールを使いこなす行動派。時間があればファストフード店でコーヒーを飲んだりもしています。会話には時に英語も交えながら「原爆のことを語り広めるのはDuty(義務)だと思うのよ」と訴えます。

 現在、福島第1原発事故による放射線の影響を気に掛けます。「原爆を受けた人はガンの発生率が高い。このことを知って、今回の事故の影響についてもっともっと考えてほしい」と強調していました。(二井)

(2012年10月8日朝刊掲載)

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