×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 三宅敏行さん―亡き級友 頭から離れず

三宅敏行(みやけ・としゆき)さん(82)=広島市南区

「悲惨さ知って」。長男に英語の手記託す

 「何が生死を分けたのか…。あの瞬間(しゅんかん)、同じ場所にいながら、亡くなった同級生の無念さを思うと、胸が詰まるんです」。原爆が投下された時、15歳だった三宅敏行さん(82)は、あの日、級友たちと一緒に被爆した場所をあらためて訪れ、記憶をたどります。

 当時、広島市立第一工業学校(現県立広島工業高)の3年生でした。両親や4人の弟と妹は、父の仕事の関係で中国にいたため、仁保町(現広島市南区)で、祖父母と暮らしていました。

 原爆に遭(あ)ったのは、建物疎開(そかい)の作業に向かう途中(とちゅう)でした。約20人の級友と、比治山(現南区)の西側の麓(ふもと)、爆心地から約1・7キロ地点を歩いていました。突然(とつぜん)、光を浴び、目の前が真っ暗になりました。20メートルぐらい吹(ふ)き飛(と)ばされ、気が付いたときには、防空壕(ごう)の中にいました。

 直前まで一緒(いっしょ)に歩いていた級友の一人が、塀(へい)の下敷(じ)きになっていました。みんなで助けようとしましたが、既(すで)に亡くなっているようでした。

 歩ける生徒だけが比治山へ避難(ひなん)しました。三宅さんは右半身をやけどしていましたが、動くことはできました。山の上で点呼を取ると、行方が分からなくなった級友が何人かいたことを覚えています。

 比治山から自宅に戻った後で、「水をくれ、水をくれ」と言いながら亡くなった級友もいたそうです。

 三宅さんは、比治山から歩いて自宅に戻りました。帽子(ぼうし)をかぶっていたので、頭は無事でしたが、耳の下から脚(あし)まで、やけどしていました。「やけどに効く」と人から言われたことは全て試してみました。申し訳ない気持ちを押(お)し殺(ころ)しながら、国民学校で火葬(かそう)された人の骨を拾い、すりつぶして塗(ぬ)ったり、海水で洗ったりしました。

 やがてやけども治りました。秋になって、学校で級友と再会しました。「生きとったか。良かったのお」。互(たが)いに涙(なみだ)を流し、抱(だ)き合って喜びました。

 今でも、亡き級友を思うと涙がこみ上げてくるという三宅さん。2009年には、南区の寺で、被爆死した級友たちの追悼(ついとう)法要を初めて開きました。「同級生のことは、ずっと気になっていた。法要ができて少し気持ちが楽になった」

 長男は、銀行員としてスイスで長年暮らしています。「核兵器をなくし、笑顔で暮らせる世界をつくるため、世界中の人に原爆の悲惨(ひさん)さを知ってほしい」。そんな思いが世界に広がるよう、被爆体験をつづった英語版の手記を、長男に渡(わた)しています。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

広島市立第一工業学校

犠牲53人の名簿残す

 広島市立第一工業学校は1939年に設立されました。原爆が投下された時は、東雲町(現広島市南区)にあり、機械、電気、工業化学の三つの学科で生徒が学んでいました。

 被爆当時、3年生だった三宅敏行さん(82)は「将来は軍需(ぐんじゅ)工場や変電所で働きたいという男子が多かった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 戦後、48年に廃止(はいし)され、広島市工業高になりました。翌年には、他の学校も含(ふく)めた大規模な再編で皆実高になるなど、複雑な変遷(へんせん)をたどり、県立広島工業高(南区出汐)に引(ひ)き継(つ)がれました。

 同窓会の事務所には、被爆死した生徒たちの名簿(めいぼ)の写しが大切に保管されています。そこには、水主(かこ)町(現中区加古町など)や鶴見町(現中区)へ建物疎開(そかい)作業に出ていたり、学徒動員先の工場で亡くなったりした生徒50人と教職員3人の名前が記されています。ただ、被爆死した生徒は、ほかにもいる可能性が高いそうです。

◆私たち10代の感想◆

原爆の残酷さ再認識

 「被爆体験を自分の子どもにさえ話してこなかった」と話す三宅さん。原爆で亡くなった級友を思い出すと胸が詰(つ)まるからだそうです。あの日、三宅さんのすぐそばにいた友達が、一瞬(いっしゅん)で命を奪(うば)われました。今日まで決して消えることのない心の傷になったに違いありません。原爆の本当の残酷(ざんこく)さにあらためて気付かされました。(高1・石井大智)

核廃絶へ決意強まる

 「核兵器や戦争のない世界のために努力してほしい」。原爆の悲惨(ひさん)さを体験した三宅さんにそう言われ、核兵器をなくしたいという気持ちがさらに強くなりました。

 被爆者の話を聞いたり、原爆に関する本を読んだりして、平和についての考えをもっと深め、周りの人に自分の意見を伝えることから始めます。(高1・村越里紗)

◆編集部より

 大やけどを負った三宅さんは、火葬された人の骨をつぶして塗っていました。骨を拾う時は数珠を手に、「申し訳ない。助けてやって下さい」と念じていたそうです。

 2月の「記憶を受け継ぐ」で紹介した天登進さんも「骨粉に油を混ぜ、やけどした皮膚に塗っていた」と証言しています。あらゆる手を尽くして生きたいと願う人々の思いがくみ取れます。

 被爆後の広島は医薬品が不足しており、さまざまな民間療法が試されていました。ほかにも、「鼻血や脱毛があったが、ドクダミをせんじて飲み続けて助かった」という話もあるそうです。ほかにもヨモギやクスの葉が出血や高熱に効いたということです。被爆者への手探りの治療が行われていたことが分かります。(増田)

(2012年10月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ