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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山下加代子さん―かまどに妹抱き隠れた

山下加代子(やました・かよこ)さん(77)=広島県坂町

土手で寝た1週間。川には数え切れぬ死体

 あの瞬間(しゅんかん)、9歳だった山下(旧姓宗政(むねまさ))加代子さん(77)は、6歳下の妹光子ちゃんを抱(だ)き、かまどの下部にある、木を入れる所に隠(かく)れました。爆心地から約3キロ。目立ったけがは免(まぬが)れました。

 広島市南蟹屋(みなみかにや)町(現南区)に住んでいた山下さん。猿猴(えんこう)川を渡(わた)って比治山国民学校(現比治山小、南区)に通っていましたが、戦争終盤(しゅうばん)になると、自宅近くの寺へ行っていました。「死ぬときは家族一緒(いっしょ)に」と疎開していませんでした。

 1945年8月6日朝も、寺へ行くため、山下さんの家の前には、山下さんや3歳下の妹幸子さんをはじめ子どもたちが10~15人いました。8時15分、だれかが「見て。B29が飛びよる」と言いました。しかし、いつものような「警報」は鳴りません。それでも、子どもたちは散り散りになって、近所の家などに逃(に)げました。

 山下さんも、ちょうど一緒にいた光子ちゃんを抱き、隣(となり)の家のかまどの中に逃げ込んだのです。ばあっと真っ暗になりました。少しずつ明るくなって見えてきたのは、足の踏(ふ)み場がないほどぐちゃぐちゃになった周囲。外には出られませんでした。

 母イツノさんは、近所の人に頼(たの)まれて勤労奉仕(ほうし)を代わり、家で横になっていました。柱時計のガラスが背中や尻(しり)に刺さって出血したまま、「加代子!加代子!」と捜(さが)しに来ました。気が動転していたのか、母は、幸子さんの友人2人の手を引いていました。幸子さんは自宅の裏口に逃げ、瓦(かわら)で頭にけがをしました。

 自宅は壁(かべ)が落ち、住める状態ではありません。猿猴川の土手で約1週間、寝(ね)ました。川には数え切れない死体が浮(う)かんでいました。

 その後、夫の尚文さん(77)と職場恋愛(れんあい)。義母に「原爆を受けとるなんて気持ち悪い」と言われましたが、59年12月、反対を押(お)し切(き)って結婚(けっこん)しました。

 義母は何年か後、原爆投下直後に広島県坂町で救護したとして、被爆者健康手帳の交付を受けました。「散々『気持ち悪い』と言っておきながら…。悔(くや)しかった」と、山下さんは振(ふ)り返(かえ)ります。

 1男2女に恵(めぐ)まれたものの、90年、長女の小百合さん(50)が白血病になりました。「被爆2世だからかも…」。抗がん剤(ざい)治療(ちりょう)が効いて完治したものの、3年前には肺にがんが見つかり、手術しました。

 山下さん自身も、白内障や、甲状腺(こうじょうせん)にがんが見つかって切除しました。体のあちこちの筋肉が痛くなる難病にも悩(なや)まされています。

 「体は弱いけど、欲しい物が手に入る現状に感謝している」。半面、今の生活がぜいたくに感じることも。節約を心掛(こころが)けています。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

国民義勇隊

建物疎開や警防担う

 国民義勇隊は、第2次世界大戦の終(お)わり頃(ごろ)、地域や会社ごとにつくられました。主に、火災が燃え広がるのを防ぐため民家をあらかじめ壊(こわ)す「建物疎開(そかい)」や、警防活動などをしていました。12~65歳の男性、12~45歳の女性で組織していました。

 ただ、実際には、中学校や高等女学校の生徒は、学徒動員されて学校、学年ごとに作業しました。また、それより年齢が上の男性は軍隊に召集されていたため、国民義勇隊には40代以上の男性や女性が多くいました。一般(いっぱん)には、「勤労奉(ほう)仕(し)」とも言われていました。

 全国民を働かせる方針は、日中戦争が起きた翌1938年に制定された「国家総動員法」から始まりました。国民義勇隊は、45年3月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定されました。

 原爆資料館(広島市中区)の2010年時点での調べによると、1945年8月6日に広島市内に出動していた国民義勇隊は地域、職域を合わせて1万1633人。うち4632人が原爆の犠牲(ぎせい)になりました。

◆私たち10代の感想◆

学ぶ機会増やすべき

 山下さんが親族以外に被爆体験を語ったのは初めてでした。被爆者が少なくなる中、体験を聴(き)きたい若者のために、とのことでした。

 被爆体験を伝えたくても、機会がない人がいるかもしれません。私たちがいろんな角度で被爆について学ぶためにも、テレビや新聞でも体験を紹介(しょうかい)する機会を増やすべきです。(高1・市村優佳)

生死分けた少しの差

 山下さんは、米軍機のB29が見えてすぐ、近くの家に駆(か)け込(こ)んで無事だったと聞き、驚(おどろ)きました。

 山下さんは当時9歳でした。とっさに危険だと判断して行動できたのは、それだけ警戒(けいかい)していたのだと思います。ほんの少しの違いで生死が分かれたのだと、あらためて考えさせられました。(高2・坂田弥優)

◆編集部より

 山下さんは、原爆に遭ったつらさだけでなく、戦中、戦後の生活の苦しさも話してくれました。食べる物がなくてひもじくて、大人用のリュックを背負って似島や江田島に買い出しに行きました。その頃、主食としてサツマイモやカボチャを食べていたので、今はもう食べたくないそうです。段原中では貧しさから、学校にはあまり行かず、缶詰工場で勤めたり、草抜きの仕事をしたりしていました。

 そんな山下さんにとって、今の生活は贅沢にも映ります。「米やご飯を捨てるなんて許せない。おかゆにして食べればいい」。もったいないことをしないよう、3人の子どもも厳しくしつけました。今の子どもたちにも、食べる物を粗末にしないよう、願っています。(二井)

(2012年11月13日朝刊掲載)

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