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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 中田清士さん―叔母ら捜し歩き3日間

中田清士(なかた・きよし)さん(83)=安芸高田市

道路脇に並んだ遺体 無残な光景忘れぬ

 中田清士さん(83)は、被爆者健康手帳とともに持ち歩いている写真が数枚あります。原爆投下時、一緒(いっしょ)に暮らしていた叔母(おば)の向井ミサノさんといとこの美子(よしこ)ちゃん、そして伯父(おじ)の西村馨(かおる)さんを写したもの。中田さんは、この3人を含む親戚(しんせき)計6人を原爆で失いました。

 中田さんは1944年3月、広島県北部の八重東国民学校(現八重東小、北広島町)高等科を卒業後、呉市の呉海軍工廠(こうしょう)の見習工として働き始めました。「満州(現中国東北部)の開拓団(かいたくだん)か、軍需(ぐんじゅ)工場に入れ、ということだったので呉工廠に行った」。上の学校に進学させてもらえなかったのです。

 45年2月から電気実験部に配属されました。職場が、広島市千田町3丁目(現中区)にあった市立第二工業学校の一画を使っていたため、段原新町(現南区)の叔母宅から通っていました。

 あの日、前日からの当直を終え、午前8時ごろ自転車で職場を後にしました。帰宅するのに御幸橋(みゆきばし)を渡り、爆心地から約2キロの皆実町(同)を走っていた時です。突然(とつぜん)、ピカッと光りました。「路面電車のスパークが光ったのかな」と振(ふ)り返(かえ)った瞬間(しゅんかん)で記憶が途切れました。気が付くと自転車ごと転んでいました。防空頭巾(ずきん)と鉄かぶとをかぶっていたおかげで、けがはありませんでした。

 家に戻(もど)ると、2階の床(ゆか)が抜(ぬ)け落(お)ちていました。叔母たちはいませんでした。この日、伯父が、陸軍歩兵第十一連隊(現中区)に入隊するというので、叔母、伯父家族で見送りに行っていたのです。

 中田さんは3日間、叔母たちを捜(さが)し続けました。紙屋町交差点には、焼(や)け焦(こ)げた路面電車や人。道路脇には兵隊や一般人の死体がずらっと並べられていました。「あの無残な姿は今でも忘れられない」。夜は東雲町(現南区)にあったブドウ畑で野宿しました。

 結局、6人を見つけることはできませんでした。戦後、市の原爆死没者名簿に、似島(同)に収容されて亡くなった、と記されていたのを見つけました。「よかった」。安心しました。

 46年、大工に弟子入り。70歳近くまで広島市内で建築の仕事をしました。その後、妻繁子(しげこ)さん(83)の古里、安芸高田市美土里町に戻りました。狭心症(きょうしんしょう)や足のしびれ、脊髄(せきずい)の痛みと闘いながら、リンゴや梅を育てています。

 「学力優先でない。若い人に、ものづくりの素晴らしさを味わい、格差のない社会にしてほしい」。平和な世の中に向け、そう願います。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

呉海軍工廠

高い技術 大和も建造

 海軍の拠点(きょてん)の一つとして鎮守府(ちんじゅふ)と呼ばれる機関が1889年に置かれたのが、呉海軍工廠(こうしょう)の始まりです。呉工廠は、船を造る部門と兵器を造る部門が一緒(いっしょ)になって1903年に設立されました。

 日露戦争(04~05年)の後、日本初の大型の軍艦(ぐんかん)が呉工廠で製造されました。フランスから駆逐艦(くちくかん)の注文を受けたこともあります。高い技術力を誇(ほこ)っていました。

 日中戦争が始まった37年、呉工廠では戦艦(せんかん)「大和(やまと)」の製造が始まりました。口径が46センチもある大砲(たいほう)を備え、太平洋戦争が始まった直後の41年12月16日に完成しました。1人乗りで敵の艦船(かんせん)に突っ込む人間魚雷(にんげんぎょらい)「回天(かいてん)」も造られました。

 戦時中は、中学生、女学生も動員されました。45年6月22日の空襲(くうしゅう)は呉工廠が目標にされ、兵器を造っていた造兵地区は壊滅(かいめつ)しました。

 戦後、解散し、今はアイ・エイチ・アイマリンユナイテッドや日新製鋼の工場になっています。

◆私たち10代の感想◆

進路選べる幸せ実感

 中田さんは国民学校を卒業後、満州(現中国東北部)か呉海軍工廠(こうしょう)に行かなければなりませんでした。自分で進路を決められる今の私が、どんなに幸せか身にしみました。

 「どんな悲惨(ひさん)なことがあったか知ってほしい」と中田さん。平和な世界にするためにも、もっと被爆者の声に耳を傾(かたむ)けるべきです。(中3・了戒友梨)

親戚を思う姿 胸痛い

 中田さんが働いていた呉海軍工廠(こうしょう)の電気実験部では英語が使えた、と知り、驚(おどろ)きました。戦時中は英語の使用が禁止されていたと聞いていたからです。

 原爆で親戚(しんせき)の多くが行方不明になりました。生死は死没者名簿の公開まではっきりせず、心配だったと話していて、考えると胸が痛いです。(高2・坂田弥優)

◆編集部より

 「3日無断欠勤したら、逃亡罪で手錠をかけられ、皆の前を連れて歩かされていた」「食事の時、班長に食事を持っていくのに、たくわんを3切れ入れたら『身を切る』につながる、と殴られていた」「寮の廊下で30分~1時間、腕立て伏せをさせられた」-。中田さんの呉海軍工廠時代の話は、今では信じられないようなものでした。原爆の記憶だけでなく、戦時中の軍隊の記憶も風化しつつあるのは残念です。私を含め、戦後生まれの人は、戦争を体験した人から、戦時中の生活や意識などをもっと聞き、学ばなければならないと思います。(二井)

(2012年12月11日朝刊掲載)

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