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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 川本省三さん―「諦めるな」が母の教え

川本省三(かわもと・しょうそう)さん(78)=広島市西区

死に場所探しもした。でも人生やり直した

 原爆に両親ときょうだいの計6人を奪(うば)われた川本省三さん(78)。「諦(あきら)めてはいけません」。戦後を生(い)き抜(ぬ)いてきた川本さんの心の支えは、母のサツキさんが生前、よく口にしていた言葉でした。

 当時は、袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)の6年。爆心地近くの塩屋町(現中区)の自宅から、県北の神杉村(現三次市)の寺に学童疎開(そかい)していました。あの日、畑の開墾(かいこん)中、広島の方で白い雲がもくもく上がっているのを見ました。

 夕方、広島が全滅(ぜんめつ)したのを知りました。3日後、五つ上の姉で、広島駅(現南区)に勤務していて被爆した時江さんが迎(むか)えに来てくれました。

 母、弟、妹が自宅で抱(だ)き合うように亡くなっていたと聞かされました。建物疎開に出ていた父ともう一人の姉は、今も消息が分かりません。

 川本さんは、姉と広島駅辺りで暮らしました。姉は、翌1946年2月に白血病で亡くなりました。その後、伴村(現安佐南区)のしょうゆ店に、住(す)み込(こ)みで働くようになりました。

 23歳(さい)の時、心に決めた女性に結婚(けっこん)を申(もう)し込(こ)みました。しかし、生まれてくる子どものことを心配した相手の親から「被爆者とは結婚させられん」と断られました。目の前が真っ暗になりました。一人で生きていこうと決め、店を飛び出しました。

 広島で運送会社を転々とし、給料は賭(か)け事に使う日々。30代前半、交通違反(いはん)の反則金2千円が払えず、免許(めんきょ)証を没収(ぼっしゅう)されました。働けなくなり、生きる意味が分からなくなりました。死に場所を求めて汽車に乗り、所持金640円で行ける所まで行こうとしました。

 降りた岡山駅(岡山市)の前にあったうどん店で、住み込み店員募集(ぼしゅう)の張(は)り紙を見つけました。「やればできる。諦めたらだめ」。母の声が聞こえた気がして、人生をやり直す決意をしました。

 50歳で弁当・総菜会社の社長に。国民学校時代の友人が「みんな心配していたぞ」と連絡(れんらく)をくれたのをきっかけに、広島が恋(こい)しくなり、70歳の時に広島に戻って来ました。

 今は、原爆資料館(中区)の案内や被爆証言活動をしています。母に教わった紙飛行機に折り鶴を載せ、これまでに約7万羽を配りました。

 被爆直後、広島駅前で出会った原爆孤児(こじ)たちは、生きるために、やくざの手伝いをしたり、餓死(がし)したりしていました。遊びたくても勉強したくてもできなかったのです。「今の若者に同じ苦しみを味わってほしくない。原爆がもたらした真実を知って」。思いを載せた鶴は世界に羽ばたいています。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

折り鶴

禎子さんがきっかけ

 「千羽(せんば)折れば、願いがかなう」という言い伝えが折り鶴にはあります。平和のシンボルになったのは、平和記念公園(広島市中区)にある原爆の子の像のモデル、佐々木禎子(ささきさだこ)さんがきっかけ。被爆10年後、白血病のため、12歳(さい)で亡くなった少女です。

 禎子さんが入院していた広島赤十字病院(同)に、名古屋市の高校からお見舞(みま)いの折り鶴が届きました。それを機に、禎子さんは、病気の回復を祈って鶴を折り続けました。

 禎子さんの死後、級友たちは原爆の子の像の建立運動を始めました。「原爆で亡くなった全ての子どもたちを慰(なぐさ)めよう」との思いは広がり、1958年に完成しました。

 折り鶴と禎子さんの話は、本や映像で世界中に広まりました。原爆資料館(同)の学芸員福島在行(ありゆき)さん(37)は「生きたいというひたむきな思いや、理不尽(りふじん)なものへの抵抗(ていこう)など、いろいろな意味で受け止められている」と話しています。

◆私たち10代の感想◆

学びの大切さ知った

 わずか11歳(さい)で家族を失い、一人で生きることになったと聞き、強い衝撃(しょうげき)を受けました。学校に通えず、働き続けた川本さんは、本を読んで必死で漢字を覚えました。「学べることの大切さを感じてほしい」とも強調していました。私は勉強できる環境(かんきょう)にいます。しっかり勉強して自分の夢をかなえたいです。(高1・村越里紗)

食べ物残す自分反省

 川本さんから、原爆孤児(こじ)について初めて詳(くわ)しく聞きました。食べ物がなく、小石を口に入れて、飢(う)えをしのいだ子どもがいたと知り、嫌(きら)いな食べ物を何の気なしに残していた、自分の行動を後悔(こうかい)しました。

 原爆についてまだ知らないことがたくさんあります。もっと真実を知りたいです。(高2・高橋寧々)

◆編集部より

 川本省三さんと広島駅前を訪れました。被爆直後、川本さんが姉と暮らしたこの辺りには、必死で生きようとする原爆孤児たちが大勢いました。やくざの手先になった孤児仲間がお金をつくるのを手伝うため、川本さんも鉄くずを拾った思い出があるそうです。

 駅前を歩いていると、戦後すぐ商売を始めたという80歳代くらいの女性が近寄ってきました。川本さんが広島駅で生活していたことを伝えると、女性は「あんたはここへおったんか。何もしてあげられんでごめん。よう生きとったのぉ」と涙ぐみました。

 餓死して道端に放置されたり、小石を口に入れて飢えをしのいだりした子どもの姿が目に浮かんだに違いありません。

 原爆資料館(中区)の原爆孤児についての説明はパネル1枚だけ。川本さんは、自分の言葉で真実を伝えようと、資料館や平和記念公園(同)内を案内するヒロシマ・ピース・ボランティア、そして、広島平和文化センターの被爆体験証言者に登録しました。毎週木曜が川本さんのピースボランティアの活動日。資料館を訪ねると、川本さんに会えるかもしれません。(増田)

(2012年12月24日朝刊掲載)

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