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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 吉原ヒロエさん―徴用で爆心離れ命拾い

吉原(よしはら)ヒロエさん(86)=東広島市河内町

絶えることない遺体焼く火。今も目に映る

 助産師だった吉原(旧姓高橋)ヒロエさん(86)は、爆心地からわずか500メートル余りの広島市猫屋(ねこや)町(現中区)の正岡(まさおか)病院に住み込みで勤めていました。あの日はちょうど、強制的な動員である「徴用(ちょうよう)」で、看護師として同市江波(えば)町(同)にあった三菱重工業広島造船所の病院(爆心地から約4キロ)にいたため、助かったのです。

 正岡病院を出たのは午前7時半ごろ。路面電車で江波まで向かい、歩いて病院に行きました。8時15分、ちょうど、もんぺから白衣に着替(きが)えている途中(とちゅう)でした。誰(だれ)かが「B29が来た!」と言ったのを聞いた瞬間(しゅんかん)、ピカッと光ったのです。「防空壕(ぼうくうごう)へ行こう」。廊下(ろうか)に出たところで、外から強い風が吹(ふ)き込んできたので、その場に伏(ふ)せました。

 しばらくして、建物の外にあった防空壕に入ろうとすると「看護婦さん、けが人が来たけえ、すぐ来い!」と叫(さけ)ぶ声がしました。診察室(しんさつしつ)に行くと、機械も消毒液もひっくり返ってぐちゃぐちゃ。それでも、次から次にけが人がやってきます。顔や手の皮がぶら下がったやけどの人が多く、チンク油を塗(ぬ)りました。

 患者(かんじゃ)があまりに多く、グラウンドにそのまま寝(ね)かせました。「8月の暑い時じゃけん、見殺しよね。行ってみりゃあ死んどる状態じゃった」と振(ふ)り返(かえ)ります。遺体は海岸に運ばれて焼かれたそうです。「火が絶えることがなかった。今でも目に映るような気がする」と、目に涙(なみだ)を浮(う)かべます。

 三菱の病院内だけではなく、正岡旭(あきら)医師とともに、朝鮮(ちょうせん)人労働者の宿舎や江波国民学校(現江波小)へも往診に行きました。

 8月15日には、広島県豊栄(とよさか)村乃美(のみ)(現東広島市)の実家に戻(もど)りました。約1週間、起きあがれないほどの下痢(げり)に見舞(みま)われました。その後、再び三菱の病院に戻り、12月まで勤めました。

 それから67年間、大病もせずに生きてきました。2011年5月までは、東広島市高屋町の産婦人科に勤務していたほど元気です。「あの1週間で、体の毒が全部出たんじゃないか」と考えています。

 「年を取ったけえ、経験したことを後世に話して、これからも平和にしてもらわんといけん」。そう考えて、今回初めて被爆体験を話しました。

 証言のために書いたメモを、一緒(いっしょ)に暮らしている中学2年の孫が一生懸命(いっしょうけんめい)読んでいたそうです。「平和でありたい。戦争は二度とあっちゃならん」。次世代に期待を込めます。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

三菱重工業広島造船所

人間魚雷 45年に製造

 広島市の沿岸部には、三菱重工業の工場が2カ所あります。うち江波沖(えばおき)町(中区)の工場は戦時中、三菱重工業広島造船所と呼ばれていました。

 江波の沿岸が埋(う)め立(た)てられ、正式に工場が開所したのは1944年3月。一緒(いっしょ)に誕生した南観音町(現西区)の工場は、広島機械製作所と呼ばれました。

 広島造船所では44年6月、初めての船「久川(ひさかわ)丸」が完成、進水。45年4月からは、1人乗りで敵の艦船(かんせん)に突っ込む人間魚雷(ぎょらい)の製造を始めました。同じ頃(ころ)から、工場の「疎開(そかい)」が始まり、機械を江波の皿山や可部町(現安佐北区)に移転するなど、空襲(くうしゅう)に備えました。

 広島原爆戦災誌によると、被爆時の従業員数は、観音の工場と合わせて約9200人いたとされています。うち約3200人が動員学徒で、若い女性による「女子挺身(ていしん)隊」や朝鮮(ちょうせん)人労働者もいました。工場内の死亡者は3人でしたが、市中心部へ建物疎開に出ていた従業員ら40人が亡くなりました。

◆私たち10代の感想◆

軍国主義の恐怖知る

 吉原さんは戦争中、「戦争に従事することは名誉(めいよ)」と考えていました。強制的に動員される徴用(ちょうよう)も当たり前だったそうです。軍国主義の恐(おそ)ろしさを感じました。

 戦争のない社会をつくるよう、努力しなければなりません。そのために、戦争の歴史を知り、怖(こわ)さを再認識するべきです。(中3・井口雄司)

政治に関心持ちたい

 被爆して、冷静になれるはずはないのに、原爆投下の直後から、看護師として従事し続けた吉原さんを尊敬せずにはいられません。

 世の中から戦争をなくすためには、政治に関心を持ち、どんな政策が有効なのかを考えることが大切です。私が大人になったら、選挙では、戦争に反対する人を選びたいです。(高2・城本ありさ)

◆編集部より

 吉原ヒロエさんは、広島県乃(の)美(み)村(現東広島市豊栄町)の隣村、川源(かわもと)村(同)にあった森本高等女学校を卒業後、広島市西観音町(現西区)にあった助産師の養成学校に行きました。本当は学校の先生になりたかった吉原さん。三原にあった高等師範学校は「難しい」と女学校の先生に言われ、朝鮮の高等師範学校に行くことにしていました。しかし、準備をしているころに戦況が厳しくなり、船が出港しなくなったので、朝鮮行きも中止となりました。「行っとったら、戻っちゃおらんかもしれん。人の運命とは分からんもんよ」と振り返ります。

 戦後もしばらく三菱重工業広島造船所の病院に勤めていましたが、「進駐軍が来たら、娘は何されるか分からん。戻ってこい」と21歳上の兄が迎えに来たため、1945年末に実家に戻りました。しばらく河内(現東広島市河内町)の助産所を手伝い、49年の結婚と同じ頃に、自ら開業。65年に町内に母子センターがオープンするまで、300人以上の赤ちゃんを取り上げました。

 「人の命が大事いうのは、ようよう分かる」と吉原さん。「ああいう戦争は二度とあっちゃならん。今の、この時代は幸せじゃけえ、ずっと続かんといけん。戦争は皆が損じゃけえ」との言葉に実感がこもります。(二井)

(2013年1月14日朝刊掲載)

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