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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 浜田平太郎さん―語る 姉・妹・級友の分も

浜田平太郎(はまだ・へいたろう)さん(82)=広島市西区

風化させぬ。生き残った負い目を使命に

 広島県立広島第一中学校(現国泰寺高、広島市中区)の3年生だった浜田平太郎さん(82)は、原爆に姉と妹、級友を奪(うば)われました。生き残ったことへの負い目から、あの日の記憶を心にしまって生きてきました。

 当時、肺(はい)の病気を患(わずら)っていた浜田さんは、復学したばかり。8月6日は高熱で建物疎開(そかい)作業を休み、爆心地から約5キロの古田町(現西区)の自宅にいました。突然(とつぜん)、強烈(きょうれつ)な光と大音響(だいおんきょう)。爆風(ばくふう)で、家のガラスは全て壊(こわ)れてしまいました。

 県立広島第一高等女学校(現皆実高、南区)1年だった12歳の妹の孝子さんは、小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に出ていました。浜田さんは近所の人から、妹が己斐国民学校(現己斐小、西区)に避難(ひなん)していると聞き、大八車を借りて学校へ急ぎました。

 妹の名前を叫(さけ)びながら、捜(さが)し回(まわ)りました。すると、はだしの少女がよろよろと近づいてきました。やけどで顔が腫(は)れ、目は糸のように細くなっていました。わずかに残っていた少女のもんぺのしま模様(もよう)に見覚えがありました。

 「孝子か」と聞くと、少女はこくりとうなずきました。大やけどの妹を連れ、自宅へ戻りました。でこぼこ道で、妹は「痛(いた)い、痛い」と言っていたそうです。「水、水」と訴(うった)え、翌7日午前5時ごろ、亡くなりました。

 21歳だった姉照代さんは、爆心地近くの猿楽町(現中区)の銀行に勤務(きんむ)。黒焦(こ)げの遺体(いたい)が7体ありましたが、姉かどうかはっきりしませんでした。母が銀行近くで拾ったのでしょう。仏壇(ぶつだん)には、遺骨(いこつ)の代わりに被爆瓦が置かれていたそうです。

 浜田さんの級友は、小網町一帯で建物疎開作業などをしていて、42人が亡くなりました。級友の遺族(いぞく)に会うたび、つらく悲しい気持ちになりました。

 父は既に病死していたため、母と2人になった浜田さん。広島高等師範学校(現広島大)へ進み、中学の社会科教諭(きょうゆ)になりました。生き残った罪悪感から、生徒にも被爆体験を話すことはありませんでした。証言を始めたのは退職後、70歳を過ぎてから。教員仲間に「代わりに話さないと、被爆死した人たちが浮(う)かばれない」と言われてからです。

 浜田さんは昨年夏、級友の最期を調べ、本にしました。「生き残らされた者の使命でもある。原爆を風化させたくない」という気持ちからです。

 「なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい。戦争を防ぎ、核兵器(かくへいき)が使われないようにするにはどうすべきか、真剣(しんけん)に考えてほしい」。若者(わかもの)に、そう呼(よ)び掛(か)けます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

「泉―みたまの前に捧ぐる」

広島初の被爆手記集

 広島初の被爆手記集は1946年8月1日に発行されました。題名は「泉―みたまの前に捧(ささ)ぐる」です。

 広島県立広島第一中学校(現国泰寺高)、県立広島第一高等女学校(現皆実高)の生徒ら39人が、原爆で亡くなった一中の35学級(3年5組)の生徒らを追悼(ついとう)しようと、手記を寄せました。被爆時、3年生だった浜田平太郎さん(82)=西区=も編さんメンバーでした。

 2校の生徒は、同じ航空機部品工場に動員されていました。35学級の生徒は、建物疎開(そかい)の作業中などに原爆の犠牲(ぎせい)になりました。

 手記集はB5判、67ページ。わら半紙にガリ版刷りです。「友を失って残念でたまらない」「この事実を全世界は何と見るか」などとつづられています。

 被爆史を研究する元広島女学院大教授の宇吹暁(うぶき・さとる)さん(66)は「追悼の意味合いが強いが、被爆直後から人々に原爆被害を伝えようとする気持ちがあったことが分かる」と話しています。

 実物は原爆資料館(中区)にあり、コピーを閲覧(えつらん)できます。

◆私たち10代の感想◆

戦争の怖さを伝える

 浜田さんは、僕と同じくらいの年齢(ねんれい)で姉や妹、同級生を原爆で亡くしました。想像を絶するほど寂(さび)しかったと思います。大切な人を簡単(かんたん)に奪(うば)ってしまう戦争は絶対に許せません。これからも、できるだけ多くの被爆者や空襲(くうしゅう)を受けた人から証言を聴(き)き、戦争がどれほど恐(おそ)ろしいかを伝えていきたいです。(中2・岩田壮)

聞いた言葉忘れない

 浜田さんは、同級生の多くを原爆で亡くしました。生き残ったことにずっと負い目を感じ、つらい思いをしてきました。その苦しみを乗(の)り越(こ)え、証言してくれた気持ちにしっかりと応えたいです。「戦争を防ぐために立ち上がってほしい」という言葉を忘(わす)れず、実行していきたいです。(高1・来山祥子)

◆編集部より

 浜田さんの自宅には、世界各地で撮影した山の写真が飾られています。趣味が山歩きという浜田さんは、欧州や南北アメリカ大陸、オセアニアなど世界中の山を旅しました。

 現地で出会った人たちに、被爆体験を話すこともあります。中国へは20回以上、訪れています。中国語もできる浜田さんは、被爆したという事実を伝え、「戦争は嫌い。世界がいつまでも平和であることを祈っている」と、話すそうです。

 日本と中国の間には旧日本軍による中国への侵略という悲しい歴史があります。しかし「中国人もヒロシマの人も同じ戦争の被害者」と考える中国人が多かったそうです。

 浜田さんは若者に対し、「もっと外へ出てみよう。世界を知ることができるし、日本の良さも分かる」と話していました。(増田)

(2013年1月28日朝刊掲載)

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