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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 上野照子さん―患者とベッド抱え避難

上野照子(うえの・てるこ)さん(83)=広島市西区

病院には大勢の人。1週間不眠不休で救護

 1945年8月6日、上野(旧姓森本)照子さん(83)は、広島市千田町(現中区、爆心地から約1・6キロ)の広島赤十字病院にあった救護看護婦養成所の2年生でした。原爆で木造の寄宿舎が崩(くず)れ、火が回りました。同級生たちを助けようとしましたが、目の前で焼け死んだり木に挟(はさ)まれて圧迫(あっぱく)死したりしたのです。

 午前8時15分、上野さんは、赤痢(せきり)にかかっていた生徒の流動食を作っていました。煮沸(しゃふつ)消毒していた食器を運動場へ見に行き、渡(わた)り廊下(ろうか)に戻った瞬間、目の前がピカッと光り、いろんな物が落ちてきました。とっさに、調理していた机の下に隠(かく)れました。

 静かになったので目を開けると、崩れた建物の間から一筋の光が見えました。「ここじゃ」。その後、気付くと2階建ての屋根の上にいたのです。服はぼろぼろ、頭に赤土が積もっていましたが、けがはありませんでした。

 上野さんたちの寄宿舎が燃え始めました。バケツリレーで消火しても間に合いません。火の粉は本館にも飛んできました。ほうきを逆にしたような「火たたき」で防ぎました。

 担当していた中央病棟(びょうとう)1階の外科病棟を見回っていると、脊椎(せきつい)カリエスで動けない陸軍の患者(かんじゃ)がいました。上野さんは、大きな体の患者を背負い、亀(かめ)の甲羅(こうら)のような大きいギプスベッドを抱(かか)え、外に避難(ひなん)したのです。「非常力(ひじょうりき)ってあったんだねえ」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 患者からは、お礼にと、慰問袋(いもんぶくろ)に入っていた日本手拭(てぬぐ)いとげたをもらいました。「顔を拭(ふ)く物もない中、本当に重宝した」

 病院には、やけどした大勢の人がやってきました。足の踏(ふ)み場(ば)もないほどでした。亡くなった人は、今、県赤十字血液センター(中区)になっている場所に運んで焼きました。

 被爆から1週間は、何を食べ、どこで寝(ね)たのか、記憶(きおく)がありません。不眠(ふみん)不休でした。ただ、迷(まよ)い込(こ)んできた牛を解体(かいたい)して食べさせてもらったのを覚えています。

 被爆後3日ほどして、広島県砂谷(さごたに)村(現広島市佐伯区)の実家から父が捜(さが)しに来ました。その時も看護に忙(いそが)しく、「元気じゃったか」「うん。心配せんでいいよ」程度の会話だったそうです。

 終戦後の46年に卒業。52年に結婚するまで広島赤十字病院の外科病棟に勤めました。ケロイドになったやけど痕(あと)に、ももなどの皮膚(ひふ)を移植する手術に何度も立ち会いました。

 これまで大病せず、子ども3人、孫7人、ひ孫2人に恵まれました。今も彼岸(ひがん)と8月6日には、病院前の慰霊碑(いれいひ)と平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑に水を持ってお参りしています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

広島赤十字病院

倒壊免れ戦後も使用

 現在、広島市中区千田町にある広島赤十字・原爆病院は1939年、日本赤十字社広島支部病院として開設しました。救護看護婦養成部(所)も置かれました。病院は43年、広島赤十字病院に名前を変更(へんこう)。戦時中は陸軍指定病院として、外来は一般(いっぱん)の人も受け入れていましたが、入院できるのは陸軍の患者(かんじゃ)だけでした。

 原爆が投下された時に在籍(ざいせき)していた職員は、医師や看護師、看護師生徒たち計554人。入院患者は約250人いました。原爆で職員と入院患者56人が死亡し、約360人が重軽傷を負いました。

 多くの被爆者が助けを求めて来ました。働ける医師や看護師、看護師生徒、入院患者が救護に当たりました。医薬品はすぐに底をつきました。

 コンクリート建ての病棟(びょうとう)は、窓枠がゆがんで窓が割れるなど大破。しかし倒壊(とうかい)や焼失は免(まぬが)れ、戦後も半世紀近く使われました。93年、新本館の完成に合わせ、旧本館が取(と)り壊(こわ)されました。爆風でゆがんだ鉄製の窓枠は移設、モニュメントとして保存されています。

◆私たち10代の感想◆

他人への心配り 大切

 はだしのまま、入院中の兵隊さんを担いで、がれきやガラスだらけの病室から外に逃(に)げた上野さんの行動力に感動しました。

 また、物が不足している時代に、げたと日本手拭いを上野さんにあげた兵隊さん。この心遣(こころづか)いに、自分だけではなく、他人のことも考えて生きる大切さを教えてもらいました。(中3・河野新大)

看護職の地位向上を

 上野さんは原爆投下後、休みなく救護に携(たずさ)わり、父親と再会しても感動する余裕(よゆう)がなかったそうです。このように、看護や介護(かいご)に関わる人の中には自己犠牲(ぎせい)の精神で働いている人もいると思います。しかし今の日本では、こうした人たちの社会的地位は決して高いといえません。もっと向上させる政策を取るべきです。(高1・市村優佳)

◆編集部より

 戦後、広島赤十字病院にも進駐軍がやってきました。チョコレートやあめをもらっても、上野さんは進駐軍が怖くて、「No」「No」と言っていました。彼らは、上野さんたち看護師が持っていたそろばんや箸を欲しがり、「Change」とチョコレートをもらいました。初めてチョコレートを食べた上野さん。「こんなにおいしいもんがあるんか」と驚きました。

 米国について「今でも、あんまり好きじゃないねえ」と言う上野さん。似た品なら、米国製ではなく、ヨーロッパの製品を買います。「でも旅行に行ったりしとるんよね」と複雑な思いを打ち明けていました。(二井)

(2013年3月11日朝刊掲載)

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