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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 藤井澄さん―連れ帰れなかった遺体

藤井澄(ふじい・きよし)さん(84)=広島市安芸区

今も夢で苦しむ。100歳まで廃絶を訴えたい

 原爆が落とされた時、16歳だった藤井澄さん(84)は、壊滅(かいめつ)した広島で約1カ月間、親戚(しんせき)を捜(さが)し回(まわ)りました。忘(わす)れられないのは、偶然(ぐうぜん)見つけた同級生と恩師の遺体(いたい)です。遺族(いぞく)の元へ返してあげることもできませんでした。68年近くたった今でも、夢でうなされます。

 東京で生まれましたが、両親が病死し、親戚の多い広島に移り住みました。1945年3月、県立広島第一中学校(現国泰寺高)を卒業した後も、動員先の軍需(ぐんじゅ)工場で働いていました。

 8月10日に山口経済(けいざい)専門学校(現山口大経済学部)に入学することが決まり、7月下旬(げじゅん)、中学校の寮(りょう)を出て、爆心地から約900メートルの水主(かこ)町(現中区加古町)にあった、叔母(おば)の営む旅館兼自宅で暮(く)らしていました。

 専門学校から動員される予定だった岩国陸軍燃料廠(りくぐんねんりょうしょう)(現岩国市・山口県和木町)の工場が、空襲(くうしゅう)を受けたことを知り、自分は死ぬかもしれないという思いが募(つの)りました。「親戚や親友に別れのあいさつをしよう」。そう思って、8月5日夜、古市町(現広島市安佐南区)の町長だった伯父(おじ)を訪ねました。

 6日朝、伯父の家を出て、親友に会うため北に向かって自転車をこいでいました。「ドーン」。突然(とつぜん)、鈍(にぶ)い音がしました。振(ふ)り返(かえ)ると、きのこ雲が舞(ま)い上がるのが見えました。すぐ伯父の家へ引き返しました。

 伯父の次男を捜すため、広島へ向かうことになりました。中心部は火災で近づけません。翌7日、再び広島へ。水主町の旅館は全焼。すぐそばの元安川は死体であふれていました。あの朝、県庁へ建物疎開作業に出た叔母の長女である、いとこの姿(すがた)も見当たりませんでした。

 伯父の次男は、勤務(きんむ)先の市立第一高等女学校(現舟入高)にいました。リヤカーで連れて帰りました。

 いとこの行方は、8日以降も捜しました。転がった遺体を確認(かくにん)したり、収容所や病院を巡って手掛かりを探したり…。しかし、モンペの切れ端(はし)すら見つけられませんでした。

 いとこは、平和記念公園(中区)にある、身元不明の遺骨(いこつ)が納(おさ)められた原爆供養塔(くようとう)に眠(ねむ)っているのでは、と藤井さんは考えています。

 戦後は、銀行などに勤めました。ひ孫が成人する100歳まで生きるのが目標です。「核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を訴えるのがライフワーク」。所属する朗読(ろうどく)グループで自らの被爆体験を紙芝居にし、子どもたちに上演しています。「核兵器廃絶の署名(しょめい)運動など世界を平和にするために、できることから始めてほしい」と願っています。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

原爆供養塔

7万人の遺骨納める

 平和記念公園(広島市中区)にある原爆供養塔(くようとう)には、約7万人の遺骨(いこつ)が納(おさ)められています。ほとんどは身元不明ですが、名前が分かっていても引き取り手が見つからない遺骨が816体あります。

 供養塔は、原爆が投下された翌年の1946年に今とほぼ同じ場所に設けられました。55年に、現在の「丸い丘」のような形になりました。復興が進む中、道路や家の建設現場などで遺骨が次々と発掘(はっくつ)され、供養塔に納められました。最近では2005年に、原爆投下直後から多くの負傷(ふしょう)者が運ばれた似島(南区)で見つかった遺骨が納骨(のうこつ)されました。

 身元が分かる遺骨については、広島市が毎年、名簿(めいぼ)を公開して、遺族(いぞく)を捜(さが)しています。市原爆被害対策部には、手掛かりを求める遺族から、数カ月に1件前後の問い合わせがあるそうです。

 同部調査課の大杉薫課長は「今なお供養塔に眠(ねむ)る遺骨を早く遺族の元にお返ししたい。心当たりがあれば、問い合わせてほしい」と話しています。

◆私たち10代の感想◆

心まで傷つける原爆

 藤井さんは、友人と恩師の遺体(いたい)を発見しましたが、どうすることもできなかったそうです。そんな自分を責(せ)め、被爆から60年以上たった今でも、夢でうなされているのです。

 原爆は、人々の体を傷(きず)つけるだけではなく、心まで傷を負(お)わせてしまうことを、あらためて思い知らされました。(高2・高橋寧々)

話し合いの意識必要

 「放射能(ほうしゃのう)は怖(こわ)い。核兵器(かくへいき)をなくすために行動してほしい」というメッセージには、白血球が増える病気を経験した藤井さんの強い思いがこもっています。

 私たちは藤井さんが言う通り、武力ではなく話し合いで争い事を解決できるよう、日ごろから意識し、核兵器廃絶(はいぜつ)に向けて努力しなければいけません。(中3・井口雄司)

◆編集部より

 広島市中区加古町の本川沿いに、原爆の犠牲になった新聞労働者を追悼する「不戦の碑」があります。死没者名を刻んだパネルの一番始めに、藤井さんのいとこ、相川愛子さんの名前があります。

 藤井さんより6歳上の相川さんは当時、中国新聞社に勤めていました。8月5日の夕食の時、翌朝は、県庁の建物疎開作業に動員される、と話していたそうです。藤井さんは「外の作業は暑いけぇ、無理しんさんな」と声をかけたそうです。それが最後の会話になりました。

 藤井さんは原爆投下から約1カ月の間、相川さんを捜して市内各地を回り、入市被爆したのです。

 中国新聞社では114人の犠牲者が出ました。しかし、生き残った人たちが新聞の発行を再開させようと取り組み、被爆3日後には、朝日・毎日新聞の代行印刷ながら発行することができました。

(2013年3月25日朝刊掲載)

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