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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 檜木田道子さん―双子の姉亡くした怒り

檜木田道子(ひのきだ・みちこ)さん(89)=広島市西区

理性奪う戦争。教壇で命の大切さ伝える

 檜木田道子さん(89)は、うり二つだった双子(ふたご)の姉、妙子(たえこ)さんを原爆で亡(な)くしました。姉妹そろって教職に就(つ)き、別々の学校で国語を教えていました。姉は、建物疎開(そかい)作業のため生徒を引率していて被爆し、全身をやけど。教え子の安否(あんぴ)を気遣(きづか)いながら、息を引き取りました。

 妹の道子さんは、井口村(現広島市西区)の広島実践(じっせん)高等女学校(現鈴峯女子中・高)に勤(つと)めていました。教員が集まって朝礼をしていた時です。突然(とつぜん)の強烈(きょうれつ)な光に続き、「ドーン」という大音響(おんきょう)。急いで教室に戻(もど)ると、生徒は「怖(こわ)い、怖い」と泣(な)き叫(さけ)んでいました。

 家族の安否が気になり、夕方、自宅(じたく)のある己斐町(現西区)に帰らせてもらいました。歩いて戻る途中(とちゅう)、大やけどした人とすれ違(ちが)うたび、不安が募(つの)りました。「姉が無事でありますように」。そう祈(いの)りながら、わが家へ戻りました。

 半壊(はんかい)した自宅に、姉は横たわっていました。声を聞かないと本人と分からないほど、ひどいやけどをしていました。

 姉は、打越町(現西区)にあった安芸高等女学校(後に廃校(はいこう))に勤務(きんむ)。建物疎開のため、小網町(現中区)一帯に出ていました。「気が付くと、生徒はいなかった。どうすることもできなかった」「あの場で死んでしまいたかったが、どうしても死ねないので仕方なく帰ってきた」。途切(とぎ)れ途切れの姉の声を、今も忘(わす)れることができません。

 無残に傷(きず)つき、亡くなった姉を思い、「それまでひそかに戦争が終わるのを願っていた。しかし、あの時、敵を討(う)ちたいと思った」と道子さん。「被害者が、すぐに加害者の心理になってしまう。それこそが戦争の本質。人から理性を奪(うば)ってしまう戦争は、絶対にしてはいけない」

 戦後、鈴峯女子中・高で教壇(きょうだん)に立ちました。「自分のことばかり考えるのではなく、みんなのことを考えてほしい。思いやりの心を持ち、命を大切にしましょう」。教え子には、そう伝えてきました。

 今は、町内や自宅の近くにある保育園で、被爆体験を話しています。近所で子どもたちに会った時、「檜木田のおばあちゃん!」と声を掛けられると、うれしくなるそうです。

 「私を覚えてくれているということは、平和の大切さが少しでも伝わっているということ。そんな子どもたちの姿(すがた)に、未来への希望が湧(わ)きます」。そう言って目を細めます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

広島実践高等女学校

泣き声響いた救護所

 1941年、「広島商業実践(じっせん)女学校」として、井口村(現広島市西区)に開校しました。広島ガス(南区)と広島電鉄(中区)の前身、広島瓦斯電軌(がすでんき)が、地域貢献(ちいきこうけん)のためにつくりました。43年、「広島実践高等女学校」に改称(かいしょう)されました。

 原爆戦災誌によると、原爆投下後、学校のあった井口村にも、多くの負傷(ふしょう)者が避難(ひなん)してきました。同女学校は、応急救護所になりました。

 皆実町(現南区)にあった広島電鉄家政女学校の生徒たちも被爆後、この女学校に避難してきました。

 証言集「電車を走らせた女学生たち」には、「やけどやけがされた学生たちでいっぱいで、『痛(いた)い、痛い』の泣き声ばかり」「たくさんの方が毎日のように亡(な)くなった」「講堂に人間の焼けただれた臭い、血の臭いが汚臭を放ち…」など、同女学校での悲惨(ひさん)な状況(じょうきょう)が記されています。

 同女学校は戦後、鈴峯女子中・高になりました。

◆私たち10代の感想◆

「仲良く」心掛けたい

 「戦争は人から理性を奪(うば)ってしまう」という言葉が耳に残りました。被爆当時、「敵を討(う)ってやる」と考えていた人が多かったそうです。しかし、やられたらやり返すという考えは、新たな戦争につながります。私は、もし友だちにたたかれたら、「やめて。仲良くしようよ」と声を掛けたいです。(小6・藤井志穂)

心に残った重い言葉

 道子さんと姉の妙子(たえこ)さん。双子(ふたご)でどちらも教師でしたが、原爆で二人の運命は大きく変わりました。自分だけが生き残ったことを道子さんは「情けない」と言います。戦後も教壇(きょうだん)に立ち、生徒に「命を大事にしてほしい」と伝えてきました。姉の死を目の当たりにしたからこその言葉が、心に重く残りました。(高2・石井大智)

◆編集部より

 「もしも空襲があったら、生徒の安全をどうやって守るか」。檜木田道子さんと双子の姉、妙子さんは被爆前、生徒の避難方法について夜な夜な語り合ったそうです。二人とも国語の教師でした。

 迎えた8月6日。原爆は一瞬にして広島の街を壊滅させました。建物疎開作業で生徒を引率していた姉の妙子さんは、生徒を避難させる間もなく、意識を失ってしまいました。

 大やけどを負いながらも、命からがら自宅まで戻った姉。「生徒をどうすることもできなかった」と、気に掛けながら息を引き取りました。原爆戦災誌によると、姉が勤めていた学校から小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に出ていた生徒232人は、全滅したそうです。

 残された道子さん。戦後も教師を続けました。「教え子を戦争の被害者にも、加害者にもさせない」。退職するまで平和と命の大切さを説いてきました。(増田)

(2013年4月22日朝刊掲載)

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